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問いのベクトルが自分に向く映画 「どうすれば よかったか? 言いたくない家族のこと」


映画館のWEBサイトには「予約してお越しください」と書いてあった。

いやいや平日の午前中だし。そこまでしなくても、、、と思いながら予約ページに進んだ。

色がついてない座席が1席しかなかった。

「えっ? 1席しか予約入ってないの?」


見間違いだった。

1席しか売れてないのではなく、1席しか残っていなかったのだ。

あわてて最後の1席に予約を入れて見に出掛けた。


何度も言うけど、平日の午前中!

でタイトルが

「どうすれば よかったか?   言いたくない 家族のこと」

明るい話じゃないことは容易に想像がつく。
このタイトルでハッピーエンドはあり得ない。

なのにどうしてこんなに混んでいるのか?

何が起きているのか?



映画の主要登場人物は4人。

医者で研究者の父と母。

医者を目指し医学部に籍を置く優秀な姉。

カメラを回している僕。4人家族の物語。


医者の娘に生まれ、自らも医学の道を目指した しかし、、、


幸せそうな家族の日常が暗転するのは、姉が医学部で学んでいた時だった。


姉は統合失調症を発症する。


統合失調症を発症したことが家族の暮らしを暗転させたのではなかったのかもしれない。

父と母は、「娘は健康そのものの」と言い張った。

暗転のきっかけはその判断だったかもしれない。


治療も受けられない。

そのことに家族で唯一疑問を抱いていた息子も、自立する年齢となり家を出てしまう。


家族の暮らしは一見安定しているようにも見えた。時だけが流れていく。

しかし、自然治癒など望めない病は、徐々に姉を蝕んでいく。

いや、姉を蝕んだのは病ではなく、家族だったのかもしれない。



例えば、娘に手を焼いた母親は、家のドアに金属の鎖を巻いて娘を家に閉じ込めた。

状況は、さらにさらに悪化していく。



そして、認知症の症状が出ていた母が他界する。


娘は病気ではないと言い張っていた母が亡くなったことで、娘は精神科医の診察を受けることができた。

映像を通して、姉の状態がみるみる好転していくのが分かる。

適切な薬を処方され、症状が落ち着いていくさまに、観客は胸を撫で下ろす。


同時に、こんな疑問を突きつけられる。

「もっと早く診察を受け、薬を処方してもらっていれば、、、姉は別な人生を送り、家族も別な人生を歩めたのではないか、、、」



「どうすれば よかったか?」


そうこうするうちに、今度はガンが姉の体に巣食う。ステージは進んでいた。


闘病の時は短かった。


姉は亡くなり家族は父と息子(弟)だけになる。


息子は父に問う。統合失調症の家族が出た家庭の在り方を。

「どうすれば よかったと思う?」



父は、迷わずに答える。



「あれで良かったと思うよ」



医者の診断を仰ぎ、薬の処方を受け、落ち着いていく姉の姿を見ている観客は、驚いただろう。

「本当に、あれで良かったのか? 早期発見、早期治療をしていたら、お姉さんには別の人生があったかもしれないのに!」


そして、問いのベクトルは映画を、この家族を見ている観客自身に向くのだ。


娘の精神病をがんとして認めなかった母の気持ちを尊重した父の判断を、もしあなたが当事者だったとしたらどうしていたか。


生きて、暮らして、つれあいがなくなり、病を得た娘も亡くなり、全てが終わってしまったあとに、いままで生きた人生を全て否定して
「あんなふうにすべきではなかった」と言えるのか?


自分の人生を、晩年になって全否定できるのか?


娘を救うために、妻を否定できるのか?

父にも、母にも、守りたい人生があったのだろう。


あなただったら、どうする?


あなたは、どうすれば良かったと考える?






1席の空きもない劇場で

「どうすれば よかったか?」

という問いだけがぐるぐるとまわっていた。 


外に出ると、ランチに繰り出すサラリーマンやOLたちも姿が見えた。

クリスマス商戦にさんざめく有楽町にはショッピング客の姿も増えはじめている。

その日常は、当たり前の日常は、本当に当たり前なのだろうか?

人生を暗転させない判断を 自分はできる!
と言い切れるだろうか?