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コーチングは神社だ!


「コーチングってなに?」 「それって、効果あんの?」

とお思いの方、長々説明してもかえって分かりにくいと思うので、一言で説明します。


「コーチングは神社です」


とは言っても、別にコーチ(私)が神だと言いたいわけではありません。笑

私の生業は、コーチングサービスを提供するコーチです。

個人を対象に行う場合もありますし、組織を対象にするチームコーチングも行います。スポーツチームが対象ならスポーツメンタルコーチングやチームビルディングも行います。

そんな私が、ふと思うこと。
それが、コーチングのプロセスや在り方、それによって得られる成果が、神社に行く事ととても近い関係にあるのではないかという事なのです。


これをお読みの皆さんの中にも、お正月に初詣に出かけられた方も多いのではないでしょうか?

そこで質問です。

「みなさんは、何のために神社に詣でたのですか?」

厄を祓うため?
願いを叶えてもらうため?

感謝を伝えるため、という方もいるでしょう。

もし、望みを叶えるため!
という方がいらっしゃったら、それコーチングを受ける目的と同じですね!


(1)まず在り方から


コーチングって押し売りが効かないんです。本人がコーチング受けたいと思わない限り何も起こらない。コーチングが可能な状態をコーチャブルと言ったりします。

神社に行く事を人に強制することはできないですよね。本人が神社にお参りしようと思わない限り何も起きない。別に、神社に行かなくたって生きていくことはできる。

「本人の意思が起点にある」という点で、コーチングを受けることと神社をお参りすることは似てると思うんです。


(2)前提に「信じる」という行為がある

神社にお参りする人を「信心深い」と言ったりしますが、神社をお参りすることの前提条件として「自分以外のものを信じている」という条件があると思うんです。


文字通り神様を信じている場合もあるでしょう。

天照大神とか具体的な場合もあるでしょうし、「自分の存在を超えた何か」といった抽象的な場合もあるでしょう。


御神木という言葉があるように、その存在は霊的なものでなくても構わない。

単にそこに生えている樹木だっていいわけです。

岩だったり、山だったり、、、ま、なんでもいいわけですです。

八百万(やおよろず)の神って言うくらいですから。


コーチングも、セッションを始める前にコーチがクライアントを信じていないと何も起きません。

何を信じるかというと、

「答えはコーチが持っているんではなく、クライアントの中にある」

ということ。

別な言い方をすると、「この人は進むべき最良の道を自分の力で見つけることができる」と信じることです。


この信心がないと、

「クライアントを助けてあげよう」とか

「答えに導いてあげたいと」とか

「アドバイスをしてあげなくちゃ」など

間違った道に彷徨い込むことになります。

セッションが終わったあと、

クライアントに気付きが起きないばかりか、

コーチの側に「見事に人様の役に立った!」的な自己満足だけが膨らんできます。


コーチが自己有用感を高めて終わるようなセッションは、失敗だと断言していいと思います。

成功したセッションは、クライアントに充足感や幸福感を、コーチにも幸福感をもたらします。


コーチがコーチングをして自己実現しているようだと「信心が足りない」と言われますよ。笑


(3)お作法がある

みなさんは、神社に行ったら何をしますか?

まず、鳥居をくぐりますよね。
丁寧な方は、鳥居の前で深々とお辞儀をしてからくぐります。

参道を歩くうち、鬱蒼とした森に取り囲まれて来ますね。空気感が変化してきます。


コーチングセッションでは、お辞儀など挨拶をしてから、自己紹介をしたりして互いの共通点などを見つけて距離を縮めていきます。2人の空気が和んできますね。


神社によっては、手水鉢などがあって、身を清める象徴として手を洗います。これも自己開示に備えた準備です。

お社の前では、居住まいを糺して(そう言えば京都市の下鴨神社の森は「糺の森」でしたね)、二礼二拍手一礼など作法に則ったお辞儀をします。

そして、お願い事をします。
合格祈願とか、家内安全とか、無病息災とか、良縁成就とかをお願いしている方が多いと思いますが、これは仏教の影響だそうで、本来は祝詞を唱えてお祓いをしてもらうようです。


コーチングセッションでは、「どうなりたいか」「どんな状態になっていたら幸せか」などを聞いていきます。願いを聞く、という意味では同じような事ですよね。


神社では、お祈りをしたらお賽銭を投じます。

コーチングでも、話を聞いてもらってるだけなのに代金を支払います。


日本では、なかなかコーチングが普及しないなどと言いますが、どんな小さな町にも神社があり、そこで人々の願い事を聞いてくれる神様がいるので、コーチングがいらないのではないかと考えたりします。


コーチも大変です。何せライバルは神様ですから。


無事、願い事が叶った時にも、人々は神社に出かけます。お礼参りですね。

ここでは、お願い事ではなく、感謝を伝えます。


コーチングセッションでは、祝詞を上げる代わりに、コーチのリードで自分の考えや思いを言葉にしていきます。

クライアントさんの願いを聞いた後、理想の状態と現状との乖離(ギャップ)を尋ねます。

そして、そのギャップを埋めるために、どんな行動をいつまでにするか言葉にしてもらいます。

コーチングにおいて言語化は極めて重要なプロセスで、言語化することで願望を明確化しプロセスを計画にまで落とし込みます。

そうこうしている間に、言語化する事で明確化した理想像に引っ張れれるようにモチベーションが高まってきます。


動機って、未来の理想の自分への憧れなんですね!


そして、コーチはクライアントに、言葉にしてみた感想を聞いてみます。

改めて言語化することで、自分のやることを客観視することができます。
この客観視はとても重要で、実現する上での障害や、自分にとっては良い事だが、周囲に迷惑をかける恐れがあるとか、素敵なアイデアだけど周りの理解が得られないとか、そういったことが目に浮かんで来るようになります。

第3者の視点で見たり、相手と立場を交換してみたり(ポジションチェンジ)。

さらに高い神の視点から見てみたりもします。

首尾よく成功すると、コーチはクライアントに感謝されることになります。


私が理想としているコーチングは、クライアントがコーチの存在を意識せず、あたかも自分だけで考えついたアイデアを実行して成功に漕ぎ着けたと感じる状態ですね。

これは、サッカーで審判がいたかどうか記憶にないくらいスムーズに試合が進行するのが最良の審判像であることに似ています。


ですから、お礼参りをされないコーチこそ、最良のコーチと言えるかもしれません。笑

神社では、日常より少しかしこまった気持ちで、自分が何を望んんでいるのかを心の中で唱えます。「家族全員、健康で穏やかに過ごせますように」みたいに。

自分が本当は何がしたいのか、周りの人にはどうあって欲しいのか、そんな対話をしていますよね。

言い方を換えると、神様と面と向かうことで自己理解を深めるという事なんじゃないかと思います。



これ、まさにコーチングがやっている事なんです。

コーチは、コンサルタントではないので、顧客にソリューションを提供したりはしないんです。笑

こうすれば望みが叶いますよ!みたいなことは決して言わない。「正解を教える」みたいなことはしないんですね。

ただただ、クライアントさんが自分を内省するのをお手伝いしてるだけ。

別の言い方をすると、

「自分自身で気付くためのプロセスを作っている」
と言えるかもしれません。
気づきというのは、本人にしか起こせませんからね。

自己理解を進める、自己理解を新たにするといった感じですかね。

自己認識を改める作業とも言えますね。セルフアウェアネス。


日本全国津々浦々に神社があったからコーチングが普及しないのかどうかは定かではありませんが、コーチングというものが、実は神社みたいな存在で、いつでも、ふらりと立ち寄るだけでいいということがお分かりいただけたと思います。


神社みたいなコーチングがしたい。

御神木みたいに、ただそこに立ってるだけみたいなコーチになりたい。

私は、真剣にそう思っています。