見出し画像

クセは生き抜いた証

最近ストレッチを日課にしています。
もともと身体が固い方なのですが、姿勢を良くして疲れにくい身体になりたいと思って始めました。一人だと続かなかったと思うのですが、妻が一緒にやってくれるので夫婦の時間として楽しく続けられています。

YouTubeでエクササイズ動画を見ながらそれに合わせてやっているのですが、自分ではお手本を真似しているつもりでも実際には同じように出来ていないということがよくあります。
どうしても自分のクセが出てしまうのです。
そんな時は妻がパーソナルトレーナーのように教えて直してくれます。無意識に自己流でやっても効き目は薄れてしまうので、そうやって指摘してくれる人がいるのはありがたいことです。

一人一人クセがあるのは、身体の動かし方も、心の働かせ方(考え方)も一緒だと思います。
そして、自分一人ではそれに気が付きにくいというのもどちらにも共通して言えることではないでしょうか。

かつて必要だったもの

自分の身体、あるいは考え方にクセがあることがわかったら、それとどのように関わったらよいのでしょうか?

ぼくばクセを「不要なもの」ととらえるのではなく、「必要のあったもの」ととらえることが大切じゃないかなと思います。

例えば片足を怪我してしまった時、その足をかばっているうちに左右のバランスが崩れ、怪我が治った後にもそのクセが残ってしまうということがあります。
結果だけを見るとバランスの崩れは身体に良くない不要なものかもしれません。
でも、それが生じた過程を見てみると、当時はそれが生きるために必要であったことがわかると思います。

考え方のクセについても同じです。
例えば新しいことに挑戦するのが苦手でつい尻込みしてしまう人がいたとします。
そんな自分の消極的なところが好きではないかもしれません。
しかし、今そのようなクセがあるのは、かつて新しいことに挑戦して上手くいかずに傷ついた過去があり、同じように傷つくことから自分を守っているからかもしれません。当時の自分の心を守るために必要だから出来上がったクセかもしれないということです。

責めるのではなく、いたわってみる

クセを悪いものだと思うと、そんな自分をつい責めてしまうものです。

自分を劣っていると責めて、もっと優れた自分になろうと頑張る。
こういった考え方は広く社会に浸透しているように思います。でも、自分を責めて頑張っても、その先で心が晴れるということは少なく、結局嫌な気持ちが残ってしまうものではないでしょうか。

責めるかわりに、過去の自分をねぎらってみるというのはどうでしょうか?
例え今は不要なクセだったとしても、それは過去の自分にとっては生きるため必要に迫られて身につけたものかもしれません。
懸命に生きてきた証。それがあなたのクセなのです。

自分のクセに気が付いたら、自分の生きてきた証として受け入れてみる。そしてこれまで懸命に生き抜いてきた自分をいたわってみる。
その上でもしそのクセが今の自分にはもう不必要なものだと思えるのなら、過去の自分への感謝の気持ちと共に手放してみる。

そんな自分との向き合い方もあってもいいのかなと思います。