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消費と応援(ファンの呼称を名乗れない話)


私は絶望した

 独式観念論か英式経験論かの話を何回繰り返せば気が済むのかと怒られそうだが、自分の立場になかなか絶望したのでここに記しておきたい。数式で支配される法則的宇宙から逃れ個の存在を確立するために鍵となるのは感情であることは17世紀バロック以降哲学の基本であるので、何事も、感情が揺さぶられることはプラスにもマイナスにも良いことでありアテネの民なら書き残すべきである。コギトコギト。

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 さて、独式観念論と英式経験論どちら寄りのOS(認知)を有しているかによって、OS(オタク・スタイル)が変わるというキモめの上手い事言わんでええね〜ん話であったが、あれは要するに完全に推しそのものをコンテンツとして見ているか生身の人間として見ているのかという話にひいては帰結する可能性を先ほど見出し絶望した。


芸能人は自分の”一部”を売っている

 3次元の推し、それは極めて難しい存在だ。タレントとは、広く定義してしまえば自身の一部をコンテンツとして売る事で収益を得る職業である。カントとロックの中間だ。そしてオタクはそれをロック:応援(カント:消費)している。

 芸能の歴史についてはそこまで詳しくないのだが、古くは神道から発展し、田楽から能・狂言に広がって、江戸時代では士農工商の身分外の存在として差別階級の地位に置かれるも歌舞伎などは大衆から人気を集め、近代以降マスメディアの発展によってその地位は向上するが、その世界での浮き沈みの激しさから「水商売」に該当する。ヨーロッパ圏でも、芸術家はパトロンに向けて作品を制作している。このように歴史的にもややアウトロー寄りかつ、彼らが売っている”芸”は相対的な尺度でしか価値が測れないため、当たれば相応のバックが帰ってくる訳が、何が言いたいかというと一般人とは明らかに違う世界で生きている。境目は曖昧で、彼らは一般人の上にも下にも横にも存在していて、それでも彼らの世界の尺度は全く異なる。


無条件に推しに貢ぎたい、という人がいる。ここからはごめん、この話をするともしかしたら明日から地上の全人類から総スカンを喰らうかもしれないが、私は、正直、あんまりそれがわからない。

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(※ここでブチギレて帰らないで一回話を聞いてくれる大人な貴方のことが、私は本当に大好きです)

消費は応援か? 

 極端に、コンテンツとして見てしまっている。大好きなのは本当なのだが、オタ活は自分の人生を楽しくするものだと思っていて、逆に言うと自分の人生に必要無い部分は本当に要らない。例えばグッズは、いつか好きでなくなったら処分が大変だし部屋に物をそんなに置きたく無いしデザインが私好みじゃなければ買わない。そのお金でスマホケース買ったりヘアカラー行ったりした方が楽しい。リアタイも、本当に心底見なければ...!!という時とたまたまタイミングがあった時は見るが、基本的にはCMが非効率なので録画の方が好きだ。クソみたいな課題をしている時もあるが、なんならその時の気分で別の彼らのYoutube観たい時でもリアタイしないことがある。ライブに向けてメンカラを着たい気持ちよりも大抵自分が一番かわいいと思う服を着がちだ。この価値観のお陰で、熱愛とかスクープとかもどうでも良いので結構一瞬で見なかった事に出来る。推しに彼女(”パートナー”ではなく敢えて短絡的に同性を強調しています)がいても気分が良くなることは基本無いので一瞬で記憶から消せる。自分がどう人生を楽しく過ごせるかが一番の尺度になっている。”楽しい人生“、そのために必要な形で必要な部分を切り取る様は、完全に人参をカレーに合わせてザク切りするかハンバーグに合わせてみじん切りにするかのごとく、消費である。彼らが好きなのは本当なのだが、言うなればloveよりfavoriteであり、滅茶苦茶今インドカレーにはまってるぐらいの感じなのかもしれない。

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 それって、応援と言えるのか?とさっき思ったのだ。会いたいなんて1ミリも思わないから何事もDVDで満足する体質だ。生で見たら大抵記憶が部分的に喪失するし(これに関しては多くの供述がある)ソースとして曖昧になるのでオタク(=ちょっと知識ある人)としては微妙である。勝手に見て、好き勝手評価して、さらに分解して、仮説を立てて、検証を繰り返し、再構築してはフレンズと滅茶苦穴だらけの討論を振りかざし合い互いの論拠を補完する。最高に哲学で楽しい。哲学シャブで毎晩ハイだからそろそろ用法・容量を規制されてもおかしくない。ちなみにこの仮説を立てて観察・実験を通し検証する実証的検証の手法はアリストテレス学派のオッカム(英)が見つけたので哲学者は最高だしオタクはもっとオッカムに感謝したほうが良いぞ。

 けどこれは別に彼らのためにはならない(と思う)。オタクフレンズと毎日ハッピーライフではあるが、再生回数とか視聴率とか無数の点の一つになる以外ほぼ貢献していない。DVDは買うけど。でもそれって消費者の行動としては非難される事もなく正しいが、応援している事になるのかと言われたらクソ微妙だ。だからファンをいつも名乗れない。関ジャニの時はエイターとか、霜降りの今は酒袋とか、その前も海外俳優オタクしてた時はカンバービッチとか色々界隈を歩いてきたが、特に距離感が近くに感じる三次元で日本人の時は”オタク”(=知識はちょっとあるよ)と一貫して自認している。どう考えても私はfanaticを略したfanではない。マーケティング手法でペルソナを想定する奴があるが、絶対に酒袋で考えられているペルソナは私ではない。Tシャツ...着てないし...(悲哀)。

 だからか知らないがついでに言うと私はオタバレを基本的にしたことが無い。あるけどほぼ無い。無個性パンピぶるのが得意だ。オタク特有の早口を完璧な同士と判明するまで絶対に出さないし、推しのことを聞かれてもいかにもパンピらしくあっさり流せる。初対面なら「Blackpink聞くよ〜色々バンドも聞くけど。お笑いも最近ちょっと好きでテレビ見るよ!食べるのも好きだからお菓子作ったりとかも好きだし、カフェ巡りとか好き」と回答している。普通だ。嘘ついてないが普通過ぎてどこも掘り下げられない。Twitterではめちゃどちゃクソキモオタなのに。なんだこいつ。キモい。二重の意味でキモすぎる。


双方向が怖い

 人間、だと思っていない訳では無い。人間だからこそその瞬間が尊い。大好きなのも本当である。彼らは自分自身をコンテンツ化しているが自分自身の全てをコンテンツ化していないことがこの問題のミソだと思っている。私達って彼らが好きだけど、それってどこまでもコンテンツ化された彼らが好きなんじゃんと思うのである。けれど彼らは生身の人間でもある。生身の人間ということは、コンテンツ化された部分と不可分であり、意思が存在し、彼らもまたこちらに尊重して欲しいと求めてくるということである。ここが二次元と違うところで、向こうが生きている限りこちらがどんなに拒絶しても双方向だ。でも双方向となると逆に、人間関係である以上関係性は時を経て流動するじゃないかと思うのだ。要は希薄化する可能性を今から分かってしまっているし、だいたいコンテンツと人間関係と言えるのか?!いや生身の人間だろ!違う加工されてるじゃないか!!という(認知の都合上)一生堂々巡りの話である。

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  彼らと自分達は双方向だと、人間関係なんだと感じて対象を真っ直ぐに愛せる人たちは余程素直で、明るく、良い人なんだと思う。私自身がそうでないから5時間ぐらい彼女達から話を聞かないと分からないが(是非教えて下さい)、いつもそういう人達を前にすると眩しく思うのだ。軽音楽部の時とかにバンドTを着るくらいなら皆やってたし私もやっていたが、好きなバンドって音楽が好きなだけで人間としてどうとかそんなに考えていなかった。推しだけど推しじゃない。favoriteでCDは消費しても許される。

 けど”推し“はどうなんだ?自分を売る、そういう演出込みの商売をしてる彼らだが、応援は許されても、ファンが消費して許されるのか?その境目は、一体何、あるいは誰が決めるべきなんだ?私はこんな面倒な奴なので、例えばクラスにアイドルのグッズ持って来て、愛しの彼の名前が印刷されたファイルを持ちながら「来月会いに行けるんだ」と笑う人達をとてもとても眩しく思うのだ。

 逆説的に言うと、私みたいな奴が手に取るに至るモノ達(胸が引き裂かれるくらい苦しいが敢えて言います)、というのは言い換えたらこういう層まで引き連れる吸引力が彼らにはあります、ということであり、多分大衆人気の駆け出しの証拠なのかもしれない。でもミーハーぶってるけどミーハーの割には守備範囲広い訳でもなく流行に即乗り出来る訳でもなく、ケツが重いキモオタクだから私みたいなのはどんなカテゴライズになるのか検討もつかない。哲学者キモオタク?なんだそれ聞いたこと無いわハゲタコ。


経済的な観点は妥当か

 「社会人になって使えるお金が増えたらライブ行くようになるんじゃない?どうせ彼氏もいないんだから。」という経済的視点を導入し新たな論点を提示する人がいるかもしれない。社会人に私みたいなタイプのキモオタクがいたらサンプルとして教えて欲しいところなのだが、でも私の予測ではそうじゃない気がするのだ。だって大学生でも会いに行く子は行くもん。アイドルやバンドの遠征・ひいては全通するただそのために日夜社会に貢献するバ畜戦士を私は何人も見て彼女たちに胸を打たれている。DVDや雑誌を買う時に迷わず大人買い出来るようになるかもしれないが、”会う”...?罪悪感で想像したらいつも吐いてしまいそうになる。双方向感が強過ぎて耐えられない。彼らからこちら何て万に一つも見えていないが、こう、ごめんという気持ちで一杯になる。私は、「何でそんなに会いたいの?」と聞いた時に無邪気な笑顔で「わかんないけど、大好きだよって伝えたいから」と答えた彼女とは明らかに質が違うからである。そりゃあもう私だって大好きだけど、でも、でもきっと大好きなのは彼のデータだからさ。例えるならば膨大な量の履歴書を見て勝手に盛り上がっているようなものだから。それって、人間関係として極めて不自然だ。えっ逆に、もしかしたら、私が一番”人間”として見ているのか...?!!背筋が凍る帰結だ。どうなっちゃってんの?!


愛していたって、オタクは総じてキモくてファンはキモく無い~境目isどこ~

 「何寝言言ってんだ"会う"んじゃない、彼らの"仕事"の一環だ!」と思えば行けるかもしれない。いやキャバクラの理屈か?辛い。辛過ぎるが芸能界は上述したが「水商売」、人を売る以上避けては通れない問題なのかもしれない。もし、もし私が『コンテンツ』の部分だけを、例えばバンドマンなら曲、漫才師なら漫才、俳優なら映像作品だけを嗜好していたならば、清廉潔白の私は滅茶苦茶スマートに堂々と会いに行けたと思う。「私、漫才、観に来てますので。トークとか巻いてくださる?」みたいな顔をして帰宅したら意気揚々とレポなぞを書いちゃうのだ。は?これはこれで痛いじゃねえかザコミソやん。八方塞がりや。オタクはどの形態でもキモさを含有しているのか?パンピしか勝たんのか???そうなると私は自我の芽生えの時点からキモくて冒頭に戻るが私は絶望している。

 そろそろタイトルに帰ろう。多くの友達やファンの子が彼らのためというただそれだけの純な行動原理で楽しく彼らに投資し、貢献し、”会い”に行き、双方向な空気感の中でありがとうを伝える・それが伝わる、そんな無垢で温かい循環にいる中、私の好きなことはデータの収集・蓄積・再構築。突き詰めればこれなのか...?と時々思って罪悪感で吐きそうになる。だから私はファンの呼称をあんまり自称できない。彼らが実在する、生きているからこそ、現実は小説よりも奇なりという言葉にあるように、彼らが作り出すもの(=受け取る段階ではデータ)は全て奇跡で予測不能で尊くて面白い最高コンテンツである。ごめんね、どうしようもなく大好き。まあ、彼らにとって実害を被る危険性は少ないタイプであることがたった一つの救いである。こんなこと言いつつ何も知らないフリをして絶対ライブに行かないことも無いのが玉に瑕(キズ)だが、彼らのストーリー線上に一切関与しない、永遠の傍観者でいたいのだ。そして傍観者は線上に一歩踏み込んで直接愛を届けるエンジェル達を眩しく思っているよ。エッッ?!こんなに中身無くて5014文字〜?!!!! ハゲタコ〜〜〜!!!!!!


※10/26(月)追記

 私と同じ頭脳を持つ通称AI(あるいはドッペルゲンガー)こと信頼する検索除けのオタクに「私はライブに行くよ」という事例報告を受けました。しかし彼女は頑なに”会う”では無く”観る”と表現しているようです。なるほどな〜!潜入してるスパイの視点や!(違う)



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