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The Emulator - ザ・エミュレータ - #62

7. 真実の現実

7.1 ストゥル

 月明りに照らされた深く青い夜だった。湿った苔で覆われた大木が青く照らされる。大きく張りだした根にもたれるように身体を預ける。湿った苔の心地よい冷たさを肩口に感じながら、森の奥から流れる川を見ていた。手前で大きく湾曲した川は勢いがなくなり静かな水面となり鏡のようにあたりの景色を映している。川から少し離れたところに淀んだ水辺が広がっている。

 雲間から時折現れる月明りが濡れた周囲の木々を青く輝かせる。額に汗が滲む。蒸れた大気の匂いが夏の夜を想起させた。辺りは虫の鳴き声と川の流れる水音で溢れている。鳥の長い鳴き声が彼方に聞こえている。アールシュは、いつからそうしていたのか思い出せない。こめかみ辺りを流れる汗が顎を伝い滴り、足元の草が音を立てる。

 月明りの届かない暗い森。アールシュはそうする理由もわからずに、その淀んだ水辺を目を凝らして覗き込んでいる。1つの影が水面を揺らした。アールシュに緊張が走る。水辺付近の木陰に潜んでいた影がアールシュと対峙するように静かに姿を現した。

 雲間に隠れていた月明りが再び現れ影を差す。おびただしい数の金属片やガラス片を体中に吊るした、髪の長い少女が一瞬青く浮かび上がりまた影になる。アールシュは見た。淀んだ水に膝まで浸かり、少女は静かに立っていた。きゃしゃで背丈はそれほど高くない。身体のシルエットからミドルスクールくらいの女の子に見えた。顔は泥のようなもので覆っていて表情は見えない。乾いてひび割れた泥から覗くその目はアールシュを捉えたまま動かない。濁りのない真っ白な結膜が暗い瞳の輪郭を強調する。再び月明りが少女の顔を照らしたその瞬間、瞳孔が縦に収縮し調光される。少女が叫び声をあげる。叫び声は特定の周波数に収束し、強く打ち付けた金属同士が響き合うような音に変わる。水面が揺れているように見えたその時、アールシュのプロセッサが翻訳を始める。

「言葉?」

 翻訳が失敗する。少女の音声とスキャンしたバイタルデータからインジゲータはターゲットの恐れ、不安を示す。アールシュは両手をゆっくりとあげて小さな声を出す。

「すまない。驚かせるつもりはなかった。すぐにここを立ち去る。」

 そういってアールシュは後ずさりをした。それを見た少女は叫び声を止め、首を突き出してアールシュを凝視しながら少しずつ近づいてくるのが見える

「……ルシュ様、アールシュ様、ご気分はいかがですか?」

 エクスチェンジの部屋を出ると建物の中庭に出た。広々とした中庭は競技用のスタジアムくらいの広さがあった。手入れされた植物が生い茂り、ガラスの天板から差し込む太陽の日差しがまぶしかった。

 先導したヒューの次にアールシュは外に出た。そして、ちょうど日差しがまぶしいと感じたところだった。今のは何だったのだろうか。追体験をさせられたのだろうか。だが、蓄積データにインポートされたデータはない。アールシュはこちらが現実であることを確かめるように自分の顔に触れてみる。ヒューはアールシュを気遣うように言葉をかける。

「まだお身体に違和感がございますか?」

「いや、そういうわけじゃないですがちょっと意識が…」

 アールシュはシャツの袖で額の汗を拭いながら答えた。ヒューはそうですかと言い、気を紛らわせようと話を始めた。

「ちょうどこの辺りは我々にとって思い入れの深い土地です。『ストゥル』にとってもそれは同じです。ストゥルとは、古い文献上に存在が記録されている人類のことです。人類と言っても、私たちとは異なる種族といいましょうか、ここ数百年の間、私たちとは別の道を歩んでいるはずの人類の事です。」

「別の道?」

 アールシュが聞く。

「ストゥルと呼ばれるその人類の祖先は、プロセッサを拒んだ人たちだと記録されています。私たちとは別の価値観や思考方法を持つとも、別の自然科学の体系を持つとも記録されていました。要するに彼らは私たちとは別の法則に従って生きているのです。

 彼らは我々のプロセッサとは少し違った独自の拡張処理と通信方式を持ち、私たちには理解が及ばない方法で我々に干渉してくるらしいのです。らしい、というのは私も彼らを見たことがないですし、彼らに関する情報のアップデートもないままだからです。ずっと過去の時代に彼らが存在していたと記録が残されているに過ぎないのです。今となっては、実在するのかどうかもわかりません。

 それに、文献のソースがよくありません。あいまいで、回りくどい表現が散見されていますし、意図的に一部が消されていたり、明らかな改ざんが見て取れる箇所もあります。我々とストゥルは過去に何かあったのだろうと推測されますが、文献自体が改ざんされていて詳細は分からないままです。

 そして、その頼りない文献を見る限りですが、彼らは私たちを知ろうとしているのかもしれないということでした。ですが、私たちは積極的に彼らを見つけ出そうとしていません。これまでのところ、我々に被害はありませんし、その文献によると彼らとの接触は危険だということが分かるからです。

 ストゥルは太古の言葉で『愚か者』を意味するようですが、その実態は決して愚か者ではありません。彼らは私たちのような思考とそのプロセスを持たない代わりに本能とインスピレーションが優れています。

 彼らにとって価値がないとみなされた対象は躊躇なく排除するようです。そういった危険な存在をあえてこちらから探してコンタクトを取ろうとするメリットがありません。それに今では地上には住む場所が十分にあります。お互い干渉する理由がないのです。私もストゥルを直接見たことはございませんが、念のために関連データのポインタをお知らせします。」

 そういってヒューは全員のPAにストゥルに関する情報のデータの位置を配布した。ヒューのおとぎ話を聞きながら歩いているとアールシュは気が紛れ、気分が落ち着いてきた。ふと見るとアールシュたちは中庭の中心付近まで歩いてきていた。 

 中庭の中心は緩やかな丘になっている。階段を上がると大きなテーブルとソファーがおかれていた。一人掛けのソファーに男が座っていた。男はシンタロウやサクラと同世代の少年に見えた。シンタロウは男の髪色を見てカミラを思い浮かべた。男はカミラやクレトと同じオリーブ色の髪をしている。

「少し話そう。」

 それだけ言うと男は自分の正面のソファーに座るように手で示した。

次話:7.2 フォークストーリー
前話:6.12 束の間

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