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The Emulator - ザ・エミュレータ - #53

6.4 サリリサ・エリミテ

 サリリサ・エリミテが『鐘の音』と『神の使いの言葉』を聞いたのは、成人までの教育期間を終えたばかりの頃に『あの日』のプログラムが発動した。そして、それから3年後にサリリサの両親と兄が自殺した。サリリサが両親と兄との生活になじみ、家族の温かさを実感し始めた矢先だった。

 原因は情報チャネルに出回った『神の使いの言葉』の意訳と、人々の不安を煽る社会情勢にあった。『あの日』以来、この世界が仮想世界であることが徐々に解明され始めていった。この仮想世界で生きる意味を見出せずに不安と無気力さに飲み込まれ、うつ症状を発症するものが現れ始めた。また、ある時から死が現実に帰還する方法だとする噂が流れるようになった。そして、それらが蔓延し始めると時間の経過とともに、自ら命を絶つものが増加し、情報チャネルを中心にその現象が広く報道された。人々はその現象を目の当たりにし、さらに不安を募らせ、大きな社会問題に発展していった。

 『神の使いの言葉』の意訳を広めたのは、『メシミニア』と呼ばれる小さな新興宗教団体だった。メシミニアは自身が持つ人気カルト情報チャネル『セブンス』を利用して大々的に民衆の不安を煽った。そのタイミングが最悪だった。セブンスを介してメシミニアが発信した感傷的な意訳は、この世界が仮想世界であることが徐々に解明されていく不安と同時進行しながら人々の心に入り込んだ。やがて人の総意を代弁する存在となり、いつの間にかこの不安の受け皿として機能し始めてしまった。

 メシミニアのみがこの仮想化世界と人類を再定義することができ、メシミニアのみが人類に生きる希望を与える力がある。人々の期待と希望によって彼らの主張がはっきりとした輪郭を持つことになった。サリリサから見ればメシミニアなどメジャーな宗教団体の別解しか依って立つ所のない、取るに足らない虚構の存在でしかない。そうでなければメシミニアのようなただの虚構なカルト集団に両親や兄が耳を傾けるはずがなかった。

 エリミテ家は元々裕福な家庭であったが、メシミニアへ傾倒した両親は、持てる限りの財産を献金に投じてしまった。両親と兄が自殺する頃にはエリミテ家には負債しか残っていなかった。肉親を全員失ったサリリサは、エリミテ家が抱える負債の相続を放棄することもできたが、そうしなかった。負債の相続と同時に19歳のサリリサはある決意を胸に刻んだ。

 19歳のサリリサには経済力が必要だった。その高い知能を生かして、すでに民間の企業体でバイオロイドやアンドロイドの開発者としてキャリアを積み始めていたサリリサは、バイオロイド開発の豊富な知識を持っていたが、今のキャリアで多額の報酬を得るだけの実績と呼べる成果は持っていなかった。

 そこでサリリサは性産業用バイオロイドを開発する、まだそれほど有名ではない新興のバイオテクノロジー企業に目をつけ研究者として入社した。サリリサは上位クラスの生活が保障されている民間企業体をやめることに反対する周囲の声を全て無視した。その程度の報酬と地位では、自身が決意した目的を達成することが到底できないことを知っていたからだ。

 急伸する業界の中心にいる新興バイオテクノロジー企業で、サリリサはいくつかの商業的に有用な特許を取得した。そうして得た利益で両親の負債を支払い、残りの利益を使って当時UCLと名を変えた行政企業体が運営するエミュレータ事業の客員研究者として参画した。『あの日』の現象とエミュレータ事業には大きな関りがあるはずだと考えていたサリリサは、何としてもこの事業に入り込む必要があった。そして、客員研究員の公募を見つけた。端的に言えば客員研究者として入り込むために必要なものはUCLへの協賛金だけだ。きっかけさえ掴めれば後は自分の実力でチャンスをものにするつもりだった。

 バイオテクノロジーやAIといった関連するテクノロジー分野ですでに大きな成果を上げていたサリリサは、すぐにその実力を認められ、主任研究者として正式な入社の許可を得た。そして、3年で役員に、5年で事業責任者のポジションに就いていた。その時、サリリサはまだ29歳だった。サリリサは知りたかった。ティア2現実の外側の人間はなぜこんなものを作ったのか。なぜ『あの日』を発動させなければならなかったのか。両親と離れて16年も教育機関に育てられ、やっと血のつながった家族と暮らし始めたというのになぜ私から肉親を奪ったのか。そして両親と兄はどうして私だけを残して死んでしまったのか。私はそれを知らなくてはならない。

 私はジャーナル・レコードからサルベージできた情報を丹念に調べ上げた。だが、なぜエミュレータが作られたのかについての思想が見当たらなかった。見当たるのは方法論やその利便性と経済合理性についてばかりだった。そんな空虚な言葉では私にとって何の説明にもならなかった。だから私はいつかティア1現実の住人にこのことを問わなければならないと考えている。そうしなければ生きて先には進むことができない。まだ私は両親と兄が死んだあの日で止まったままだ。

次話:6.5 インヴィテーション
前話:6.3 ティア2現実

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