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The Emulator - ザ・エミュレータ - #54

6.5 インヴィテーション

 サリリサはUCLに参画して間もない頃にティア2住居リージョンに住む人間と初期コンタクトをとったという、UCLの研究者からティア2住居リージョンが少なくとも800年程度進んだ世界であることを聞かされた。

 そして、サリリサたちティア2現実の人類は、ティア1現実はおろか、ティア1の移住先の仮想世界であるティア2住居リージョンに招かれた人間すらいないことを知った。今もなお、こちらからメッセージを発信し続けているが、ティア2住居リージョンの住人から初期コンタクト以来返答は帰ってこなかった。サリリサがUCLに参画して何の進展もないまますでに28年が経過しようとしていた。

 突然事態が動き出したのは2か月前の深夜だった。サリリサはオペレーション用のAIから、ティア1の住人からコンタクトがあったと連絡を受ける。しかもコンタクトがあったのはティア2住居リージョンの住人ではなくティア1現実、つまり『真実の現実』の住人だというのだ。サリリサはその内容を聞いて声をあげるほど驚愕し、AIと人間の部下の区別がつかないほど慌てて、それを取り繕うことすら出来ないほどに動揺していた。

「あなたたちが見つけた『暁の器』と『羽』の候補を連れて、私たちのもとに来てくれないだろうか。彼らと直接話をさせてほしい。」

 私たちは突然『真実の現実』に招かれることになったのだった。しかし、それ以外のメッセージ内容は奇妙な暗号のようだ。そのメッセージを受け取った当初、彼らの目的はもちろん、彼らが何を求めているのか、それすらも分からなかった。

 それから私たちは直近で何か関連するイベントが発生していないか様々なことを調査した。関連しそうなイベントはすぐに見つかった。そのうち利用するつもりでたまたま稼働させていたティア3検証リージョンで『あの日』のプログラムが発動していたのだった。そして、そこで発生した『あの日』は特別だった。私たちティア2現実や、私たちの移住先として選定したティア3住居リージョンが体験した『あの日』とも内容が異なっていた。

 私たちが体験した『あの日』に聞いた『神の使いの言葉』のメッセージは、ティア3検証リージョンのように『暁の器』や『羽』のような抽象的な言葉はなかった。デコードのような細工は施されておらず、具体的なメッセージとともにエミュレータにジャーナル・レコードの位置を示すアラートが検出された。

 先月に発動したティア3検証リージョンの『あの日』をすぐに解析させて、『鐘の音』を発動させた人物と『神の使いの言葉』をデコードしていた人物を特定した。『鐘の音』を発動させた人物はエミュレータ研究者のアールシュ・アミンで、彼は『神の使いの言葉』の一部をデコードした人物でもあった。

 そしてもう一人、デコードをしていた人物がいる。ネブラスカのハイスクールに通う学生のシンタロウ・J・カワムラだった。シンタロウはメッセージ全体をデコードしていたが、後半部分のメッセージのデコード結果は、APIキーとそのキーを入れるためのプログラムの生成方法が示されているだけだ。肝心の『暁の器』と『羽』の意味が判明していない。それでも彼らが『暁の器』と『羽』に関係しているに違いないと考えた。私はエミュレータ管理者の一人、ノア・バーンズに命じて彼らと、彼らに関係する人物をティア2現実に連れてくるように指示した。

 そして、彼らがティア3住居リージョンに滞在している間にさらに詳細な調査を行った。シンタロウに関しては直近おかしな現象に巻き込まれていることが判明している。おかしな現象とはまず、検証リージョンのデバッグモードを起因とするパフォーマンス障害に遭遇したことだ。この種の障害は通常、演算装置のパフォーマンスを正常域に戻せば影響を受けたオブジェクトも元のパフォーマンスに戻るはずだ。

 しかし、それには条件があった。まず前提として、1つの演算装置の処理範囲は割り当てられた特定の区画のみを対象としている。そして、オブジェクトが演算区画を跨いだ場合、その情報が別の区画に伝搬される。さらに、複数の区画で構成されるクラスター単位でその情報の伝搬が行われるのだが、シンタロウが短時間で長い距離を移動し、複数のクラスターを跨いだため、障害復旧用のシグナルが単位時間当たりにブリッジ出来るクラスターの上限を超えてしまったということだった。

 その結果、パフォーマンス障害が訂正されずに後遺症として今でも身体的に異常がのこったままだった。通常は即時自動復旧されるパフォーマンス障害の復旧に時間がかかったことと、そのために自動復旧時間から割り出されているはずのブリッジ出来るクラスターの上限を越えて対象が移動してしまったことが重なった。

 マテリアルの論理破損も自動復旧されておらず、それを使って『あの日』のプログラムが発動してしまったのだ。そうでなければティア3検証リージョンはまだ『あの日』を迎えるにはテクノロジーが成熟していない。

 そもそもあの区画の演算装置は完全に停止したわけではないし、ほんの一部のマテリアルの論理破損と演算装置の故障予兆の回数に満たない程度のエラー訂正の結果がフェイルしたというだけだ。ただそれだけのことが引き起こした偶然だった。

 もう一つ不審なことがあった。それはシンタロウがPAからヴィノを生成するという奇妙な行動をとっていることだ。シンタロウ個人のインスペクションの報告書を見ると、どうやらシンタロウは幼少期から解離性同一障害を患っているようだ。いわゆる多重人格者だが、本人は障害だと認識しておらず、治療を受けた痕跡がなかった。そして、その症状は現在寛解していると報告書には記載されていた。

次話:6.6 キャンディデイト
前話:6.4 サリリサ・エリミテ

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