【過去記事】苫米地英人さんと語る会:その1

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苫米地英人さんと語る会:その1
投稿日:2009/12/05 00:05:00
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苫米地英人さんを囲んでみんなで語ろうという集まりに参加してきました。

独特の語り口調でぐいぐい引き込まれる話、そしてインタラクティブに合いの手の質問や感想を投げて深める参加者という不思議な空間でした。

ある意味自分用にまとめておきたいと思います。
*引用という形ではありますが、口頭での記憶を頼りにしているので私が解釈、歪曲している可能性あります。


悟りについて
悟りとは、知識を得ること。例えば空腹だから悟り、満腹だから悟らないということはナンセンス。脳波の状態とか生活の状態、振る舞いなどによって判断することではない。
苦行によって悟りの境地になるとかも、ある意味迷信。各宗教の原典にはそんなことは書いていないのに、いつしか書き加えられていることもあり、現在の経典とかは、歪曲されて記述されていることが多い。苦行が行われる意味は本当に人生をかけて取り組むかという判断基準としてのこと。コミュニティ参加の評価基準であり悟りとは無関係。
このように(歴史、文化、思想、科学などの)知識を得ることは大事。鵜呑みにしない世界観。そして悟りについては自分で決めればいいこと。

この文面だけからだと、非常に抽象的で思想的な感覚がしますが、あくまでも2時間以上の話の流れの一部を抜粋したもので、かつ私の文章表現ということなので、本当は圧倒的な理性(理論)を軸に脳科学という側面から語ったものです。

悟りについては私はとても明快に感じました。何か儀式や生活様式というものではなく、普通に生きているけど悟っているかどうかは知識という積み重ねであり、自分で選択できる点。

最近私が感じるのは、自給自足の生活とか自然と共に暮すということが人間性回帰というムーブメントを耳にする度に、本当にそうだろうか?という問いが生まれることです。

複雑な近代都市社会を離れ、田舎に行くこと自体、近代都市社会の背景や大きな自然観という視点に覆いを被せている気がするのです。自然とふれあうことの重要性もありますし、本来の人間という生き物の暮らしは自然との共存であることは確かだと思います。もちろん自然が好きという嗜好性であるならそれは個人の選択であり、自信を持って歩んでいって欲しいと思います。

自然とともに暮らすことが人間性回帰という壮大なテーマを啓蒙する意味でかかわるのであれば、都市社会の仕組みや生い立ちを包括した視点も欠かせない、という私の考えです。

視点も振る舞いも局所ではないということ。局所における自然との共存を是としている事自体、適当な例えではないですがある意味原理主義的な匂いを感じるわけです。

きれい汚いということに線引きせずにすべてを包括して、そこから自分という個性をどうやって発現していくかが重要であるという私の考えです。

その結果、自然と触れ合える場所に生活するという選択は大変有意義なものになるのではないかということです。

つまりは悟りは知識を得ること、自分で選択すること、振る舞いや状態とは関係ないという苫米地さんの考えにつながるわけです。

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