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日記に残すよりも手紙にしたためたいこと

こんばんは。文章に残しておきたいことがたくさんあるような気がして、よおし今日はnoteを更新するぞ、と息巻いていますが、晩ごはんで晩酌をしてしまい見事にほろほろ酔っ払いです。
残しておきたいことが5割くらいで終わってしまうかもしれません。
なんでかっていうと、酔っ払うとわたしはいつもに増して話が長くなるからです。

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晩ごはんを家で作る日は、作ったご飯を写真に撮っていて、自炊記録専用のInstagramアカウントに更新しています。
写真にはその日の晩ごはん、キャプションにはその日に考えていたことなど諸々。
今年の1月からはじめて、半分が過ぎたところで、現在125投稿になりました。
約半年間、ご飯を作った日はその日に感じたことを文章にしてキャプションに残してきました。

あと、今年はもうひとつ、わたしおそらく10年ぶりに手帳を買ったんです。
本業と副業(と言っていいのかわからないレベルだけどね)のスケジュールのバランスを確認したり、そこにも一言書きたいこととか今年やりたいこととか辞めたいこととか好きに書けるように、買ってみたんです。

毎日インスタでご飯と共に考えたことを書いて、フリック入力ではすっきりしないこととかは図式で自由に手帳に書いたりしています。
それで溢れてしまうような長い考え事とか、これはある程度整えて残しておきたいなと思ったことは、noteに残してみたり。そんなことを2023年、取り組んできました。
1年の半分を過ぎようとしているこの頃に、それらを見返してみたんですよね。
圧倒的に手帳に手書きで書いているものがやっぱり少ない、ということに気がつきました。
でもね、書いてあることや、当時のわたしの筆跡とかから、思いを感じ取れるのは、やっぱり「手書き」なんですよね。

それでふと思ったんです。
「わたし最後に手書きで手紙を書いたの、いつだろう」って。

まあこの話を端的にいうならば、「文通がしたい」ということなんです。
パソコンのキーボードを叩いたり、スマホのフリック入力で、思いの温度感が伝わることももちろんあるんだと思うんですが、なんだろうな、手書きの温かさって、ありますよね。
ネット上で文章を「書く」と言っても、わたしはカタカタしているだけなんです。正確にはこれは書いていない。
年賀状に手書きでメッセージを添えたり、ただただ近況を報告するだけの手紙だったり、出掛けた先で素敵なポストカードに出会って、その勢いで旅先から送ったり。
なんかそういうの、最近してないなあと思って。
インターネットを介すれば、「既読」というサインが出て、すぐに返事が来て、一言ずつでもお互いラリーができて、そりゃあ便利ですよ。便利なことは便利な時に使えばいい。
手紙だったら、数十円でもお金をかけて相手に思いを届けて、返事にも何日かかかって、ポストをのぞいて返事を待つあのワクワクとか、便箋にこだわったり、季節感のある切手を使ったり、ああいうのって、電波越しには感じられない楽しさだなあ、と思って。
まあでも文通ってのは相手がいてこそですからね。なかなか難しいので、わたしはここからダラダラとキーボードを打ってお伝えしようと思います。

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最近暑くなってきて、アイスクリームが食べたくなる日がとうとうやってきました。
去年の夏には感じなかったことなんですが、いまの冷蔵庫、冷蔵と冷凍の2ドアで、冷凍を閉めると反動で冷蔵が開いてしまうんです。
去年の夏はこんなことなかったはずなんですけど、今年の夏は冷凍を閉めるたびに冷蔵が「お呼びですか?」って開くんです。
わたしは、お呼びでないんですよ、閉まっててくださいよ、って閉めるんです。
でもたまに、今日みたいにちょっと注意散漫な日があると、冷凍を閉めた後に冷蔵の独り言が聞こえなくて、しばらくそのまま冷蔵開けっぱなし、みたいなことになったりするんですね。
一人暮らし用の小さい冷蔵庫なので、開けっぱなしになってもアラーム音とかならないんですよね。
これが危ない。
今年は冷蔵の独り言に耳を傾ける夏になりそうな予感です。
皆さんもお気をつけて。

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最近体が締まってきていて、体重で言うとマックスから−6キロくらいなんです。
このくらい締まっても、ゆっくりゆっくり時間をかけてきたので、毎日会う職場の人や月1回くらい会う友達とかには、全然気づかれなかったりします。
でも久しぶりに会った祖母とか、1年前の自分と比べたビフォーアフターの写真とかを見てもらうと、「めっちゃ痩せたね」と言われるくらいには変わっているのです。

この、「痩せた」というワードに、実はあまり喜べない、という話です。

わたしの中では体重ってただの質量を表す数字でしかなくて、同じ数字でも、筋肉量とか、水分量とか、骨格による筋肉のつき方によって、見え方には大きな差が出ます。
体重は増えたけど、実際は筋肉量が増えてボディラインが締まって見えると、「痩せた」と言われたりする。
同じ体積だったら脂肪よりも筋肉のほうが質量は重たいんです。だからこういうことは普通に起こり得るんですね。
今の世の中はやっぱりどこか「細ければ美しい」「痩せると可愛くなる」理論が大多数を占めていて、「モデル体重」とか「シンデレラ体重」なるものが参考にされたりします。
わたしはそこに対して強烈なアンチテーゼを抱いています。
まず「痩せ」というこの言葉自体に「貧弱になった」とか「十分あったものがなくなってしまった」みたいなネガティブな要素をとても感じる。
仮にモデル体重を目指して減量やトレーニングを頑張ったとして、自分のなりたい姿になったのに、「痩せた」というネガティブな言葉を使うのは、なんか嫌じゃないですか?
自分の姿を好きになれるように、自分の考えの中ではポジティブな方向へ進もうと取り組んだ結果、それを表す言葉がネガティブっていうのが、どうしても違和感があります。ありませんか?
どうせならもっと「達成したぞ!!!!!」みたいな表現がいい。
今のわたしはそのしっくりワードを探しています。

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蒸し料理をしようと思って、せいろを買いました。
元々は友人が「せいろ欲しいんですよね」と言っていたのがきっかけで、その時のわたしは「えっ電子レンジでええやん」と超スカした返事をしていました。
それから食事をせっせと作るようになり、栄養バランスを考えたとき日々自分が作る主菜において揚げ物や炒め物の割合が多くを占めてしまうことがだんだんと気になるようになってきました。
これは、やっぱり栄養バランスから考えても、脂質過多だよなあ、と。
そんな時に思い出したのが、友人の「せいろ欲しいんですよね」でした。

蒸す…という選択肢。
最初は折り畳みができるステンレスの蒸し器を買おうとしていましたが、調べていくうちに、せいろ自体の手入れの手軽さや、見た目で「蒸してます感」が溢れるのに惹かれ、ついにせいろをお迎えすることになりました。

根菜や、お肉、肉まんや焼売などの点心系、まだやってないけどお魚も。
お湯を沸かしてせいろを入れてあとは放っておくだけ。火加減をミスって丸焦げにすることもありません。
結果的にいい買い物でした。友人ありがとう。

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自分のやりたいことが沸々と湧いてくるとき、それらが「そうだったらいいな」のレベルではなく、より具体的に「こんなことを提供したい」「こんなふうに生きたい」が見えてくる。
それが今なんだろうなあ、という自覚があります。
29年と6ヶ月生きてきて、今のわたしが一番「やりたいこと」が明確にある状態です。
今までは、親に認められたい、先生に褒めてもらいたい、友達にすごいって言われたい、誰かに羨まれたい、だからみんなの望む自分の姿を、と思って人生を選んできた部分がありました。
もちろん口先では「自分のやりたいことはこれ!」と言ってきた。そうじゃないと応援されないと思ってきたから。
そうやって、半分自分の意志、半分周りに期待された模範解答で選んできた道にも、愛を持って誠実に、まっすぐに嘘をつかずになるべく進んできました。
そんなわたしが今、初めてとも言えるくらい、「周りに反対されたとしてもやりたいと思えること」に巡り会えている感覚がするんです。

マンツーマンでの徒手療法、少人数でのピラティスレッスン、自分で作った料理を誰かに食べてもらうこと、文章で自分の思いを綴ること。
それらは、わたしが敬愛するジュエリーデザイナーの方が仰っていた「いつでも苦痛なく60%のクオリティで出せることを3つ掛け合わせると、自分にしかできないものになる」という言葉を思い出させてくれました。
わたしは、人を励ましたり癒す存在でありたい。
体を整えることを通して、心が豊かになり、自分の思考まで影響を及ぼすということをもっといろんな人に知ってもらいたいし、よくなる道への案内をしたい。
理学療法士として8年働いてきて、たくさんの人と出会い学んだからこそ、自分のこの考えが確立できたような気がします。それを、どんな環境で、どんな形態で実現するか。
そこはかとないわくわくが、体中を駆け巡る感じ。

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最近本当に目に映るものがひとつひとつ感覚に入ってきて、少し疲れてしまうくらいなんです。

この道のユリ、先週はまだ咲いてなかったのになあ。
あの猫さんの鳴き声、この間もおんなじような所で聞こえてきたなあ。
ここの道の工事、昨日と人が変わってるなあ。
今レジの前に並んでる人、この間あそこで見かけた人やなあ。
この人がこういう視線でこの話題をしているときは、あんまり触れられたくないってことなんやなあ。

もう、ありとあらゆるところに自分のアンテナが張っているような感じになります。
ちょっと疲れてしまう。入ってくる情報の多さに。
でも、なんだろう、邪魔だなと思う感覚ではなくて、気を抜くと見落としてしまうけど本当はスルーせずに受け止めたいことだったりするんです。
最近、職場の先輩に鍼治療をしてもらってるんですけど、その先輩が「人間って究極で言うと、血縁関係とか恋愛感情とかなしでも自分のことを受け止めてくれる人が一人でいいから欲しいって思ってるんやと思うねん」と仰っていたんですよね。

利用者さまに対してだけではなく、それはわたしにとってもそうだな、とえらく腑に落ちたんです。
好きとか、愛してるとか、大事にしてるとか、目にみえる紙面上で誓い合うとか、確かにそういうものに憧れてもいるけれど、どれも根本を辿れば、自分のことを真剣に受け止めてほしいという感情なんじゃないかと。
自分のことを受け止めてほしいという欲求と、誰かのことを全身で受け止めたいという欲求。
それが同一の相手で成立すればそれは愛情になるだろうし、不特定多数だったり自分の仕事を通してだったら使命や責任感になるんだろうな。
そんなことを話し合いながら心も体もどっぷりほぐれました。

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頭の中でもわんもわんしていること、うまく言葉にできたかしら。
夢中になってキーボードを叩いていたら、なんだか少し酔いが覚めてきたような気がします。(と言いつつ実際はそんなこともない)
どうして家で一人で飲むとこんなに軽くても酔っ払っちゃうんだろうな。
金曜の晩だからと夜更かしせずに、今日も努めていつも通り歯を磨いてウクレレを引いて日付が変わるまでに寝たいなと思います。
長らくお付き合いいただいてありがとうございました。愛を込めて。

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