仕事を1年ちょい続けてみて思ったこと

昨年の春から働き始めて、今も働き続けている。この先しばらく何もなければ、ダラダラ続けられそうな気もしている。これはとても画期的なことだと思う。

これまでの人生において無職期間がほとんどであった。無職期間以外も、行き当たりばったりで働き始めては辞め…また働き始めては飛び…を繰り返してきた。しょうがない人間である。

そんな俺がなぜ働き続けられているのかと言えば環境の要因が大きいだろう。以下にいくつか挙げてみる。

  • 手帳を取得した

  • ガッツリ通院している

  • 支援機関にしっかり介入してもらってケツモチをやってもらっている

  • 実家に転がり込んで厄介になっている

  • 家から職場が近いので通勤が比較的楽

  • まともな人が多い職場を選べた

本当にありがとうございますありがとうございますという感じである。

さて、とは言え労働それ自体は相変わらず嫌いだし毎日行きたくないなぁと思いながら就労しているわけだが、さすがに「あれ…労働って用法用量を守れば心身にとってすごく良いのでは…?」と思えることもいくつかあった。


日々時間を潰せる何かを持つことはすごく良い


手に余る余暇は体に良くない。時間が過ぎるのが遅い。正直、俺のような何も持たぬ凡人にそんなもの与えられたとて使いこなせない。創作活動などに勤しんでいる方など時間をかけてやれるライフワークがある方にはいいのだろうが俺には無理だ、有り余る余暇や自由に飲み込まれて発狂してしまうだろう。そこで労働である。行く場所・やる事を先方が定義してくれる。楽だ。バタバタやっていれば時間があっという間に過ぎていく。頭も体も何かいい感じに疲れる。疲れれば飯が美味いし夜も眠れる。これは良い。



定期的に振り込まれるお金は精神に安定をもたらす


毎月定期的にまとまったお金が入るのはすごく良い。使って減ってもまた入ってくるという安心感。預金残高が減っていくだけの日々に怯えなくていい。使わなければ増えていく一方だし最高だ。


血の通った生身の他者の存在を感じられるということ


1人で悶々とするしかない毎日は自意識を肥大化させ、自分以外の他者というものを無機質な存在へと変えてしまう。認識の中で無機物と化した他者へはどこまでも残酷に振る舞える。サンドバッグを殴っても心が痛まないように。職場には他者がいる。呼吸をしている。匂いがあり、額に汗をかきながら働いている。理不尽な目に遭っていたり、満足そうな顔をしていたりする。家庭があり家族がいて、そちらでも悩んだり喜んだりしている。ああ同じだ。皆生きている。無機物なんかではない。そういった実感全てが俺を正気でいさせてくれる。

ざっと思いついたのものを思いついたままに書いた。それでもやっぱり仕事は労働は憂鬱だ。億劫だ。まだ何か改善の余地がある。

ただ一つ言えることは、俺の人生はだんだんマシになってきているということだ。これでいい。どんどんマシな方に進むんだ。どこに向かっているのか目的地は分からないが、足元に確かなものが積み重ねられていっているのだけは間違いないし、それを大切にしていきたい。





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