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【思索】考察という、枯れ尾花から幽霊を生み出す儀式について


人には人の考察がある

皆さん、こんにちは。
本格ミステリ愛を拗らせた化け物こと、葉月めまいです。

葉月は物語の考察をすることが大好きです。
note内でも、考察記事を過去に二つ書いてあります。

これからも様々な作品を考察していきたいと思っているので、
今回は、「葉月の考察におけるスタンス」を書き綴っていきたいと思います。

なお、本稿には葉月の個人的な考えが多分に含まれます。

別に「これに当てはまらなきゃ考察じゃねえ!」などと主張するつもりはありません。
単なる、葉月の個人的な決意表明としてお読みください。


作者は物語の神なのか?

結論から述べますと、葉月にとって考察とは「作品から最も合理的な解釈を取り出す行為」です。

その定義が全てだと思っているので、
作者が用意した「正解」か否かという点を、葉月は重要視していません。

なぜかと言うと、葉月は物語を「ただの作り物の世界」ではなく、
連続性を持つ限り、もう一つの現実として機能する世界」だと捉えているからです。

↓こちらの記事で、虚実の関係について詳しく語っています。

この観点において「作者の存在」は「作品の価値」にまったく影響しません(逆に、「作品の存在」は「作者の価値」に影響し得ますが)。

もちろん作品を生み出す作者は偉大ですし、葉月は尊敬の念を抱きますが、
物語とは、解釈された時点で自律的に「生き始める」ものだというのが葉月の認識です。

なので、いわゆる「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」問題を、
葉月はあまり気にしていません。

むしろ、作者が想定していない文脈を取り出すことこそが、
考察の醍醐味なのではないか、とさえ思っています。


読者(視聴者)は物語の神なのか?

では、受け手の解釈は物語を定義し得るでしょうか。

葉月は考察において、作者の発言や主張を軽視しますが、
その一方で、「陰謀論に片足を突っ込んでいるような深読み考察」に対しても非常に懐疑的です。

他者と共有できない解釈は、こじつけとの誹りを免れられず、
独自の二次創作設定」と区別ができないからです。

もちろん個人の内部では、主観的な解釈が物語の神になり得ますが、
考察と名乗る以上は、なるべく「共有可能な解釈」を探るべきだ、と葉月は自らに課しています。

そして、「万人に共有可能な解釈」とはつまり、
最も合理的、論理的な解釈」なのではないか、と思っているわけです。


枯れ尾花を用いた降霊術

まとめますと、葉月はこのように考えているわけです。

①物語は、「連続性」を心臓として生きている。
②考察によって探るべき対象は、
他者との共有が可能」な「秘められた連続性」である。
③作者の意図やメッセージは、考察に影響しない。

繰り返しますが、あくまでも葉月の方針なので、
「全ての考察がこうあるべきだ」などとはまったく思っていません。

ただ、葉月はこのように定義をすることで、物語に多重な深みを見出そうと試みています。

もしもそれが作者の想定していない解釈であっても、
合理的でさえあれば、物語の内部では真実と同等の価値を持ちます。

考察という行為は、生きている物語の価値を深めるのみならず、
生きていなかった物語でさえ蘇らせ得るのです。

以上となります。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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