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たったひとり、そばにいただけで。

調理師の専門学校を卒業して、僕は不動産屋になった。24歳でクジラ株式会社を設立し、今年で14期目である。

「なんで調理師学校出て、不動産!?」と良く言われるが、実はもうひとつエピソードがある。

高校三年生の春というタイミングで専門学校への進学を決めた僕に「なんで普通科の進学校出て、調理師学校!?」とみんなが聞いてきた。

浮いていた。

なぜか高校のときは、一年生の頃から微妙に浮いていた。イジメられていたとかではなく、なんか浮いていた。

誰かと少し仲良くなって「自分の居るべき、大切にすべきグループはここなのか!」と嬉しく思っていた最中、いつの間にかそうではないことに気付くことが何度もあった。

はしゃいでいた自分への恥ずかしさと、急に空いた人間関係の距離をいつも無言で見つめているイメージがあった。

通っていた地元の公立高校は普通科で、僕は理系クラスを選択した。ほぼ全員が大学受験組。

高校三年生の受験勉強本番というタイミングで、専門学校への進学の意思表明をした僕は、いよいよ浮いているどころか”あいつ飛んでる”くらいの状況になってしまった。

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説明・説得・説教。

担任の先生に昼休みに呼び出された。提出した進路希望調査の用紙を僕に見せながら言われた一言目は「ふざけてるのか?」だった。

希望する進路への相談ではなく、「ふざけていない」ということから説明しないといけなかった。そして、なぜ調理師なのか?も熱意を持って説明。

昼休みの一時間では終わらなかった。

嫌いでたまらなかった父とは中学からほとんど口を聞いていなかったが、珍しく父から声をかけてきた。

「大学には行っておけ。世の中、学歴なんだ」

ホンダに高卒で入社した父の言葉の意味は嫌いながらも納得したのを覚えている。しかし、説得を試みる息子に、父は次第に説教を始めたことで大喧嘩に発展した。最後は結局、母の力を借りるしか無かった。

そして、一番辛かったのはクラスメイト。

理系組は、3年1組と3年2組だけで一体感が半端なかった。そして、その2クラス約80名のうち、僕が所属するサッカー部と仲の良い野球部が15名近くいた。

「おまえ、勉強しなくて楽だな」

スクールカースト上層部のサッカー部と野球部からも相手にされなくなってしまい、”あいつ飛んでる”どころか、いよいよ僕はクラスから消えてしまった。

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本音。

一番良く無いのは、「あいつはカッコつけている、調子に乗っている」というイメージを持たれたことだった。

進学校でサッカー部副キャプテン、勉強でもそこそこの成績。どちらかというと器用で雄弁というようなイメージの奴が、急に調理師学校への進学を掲げ出し、理由を聞くと「料理で人を喜ばせるのがカッコいい」と言うのだ。

周囲がカッコつけていると思っても仕方ない。

しかし実は、料理が好きな僕にとって「料理がやりたい」というのは調理師学校に進学する理由の一番目の理由ではなかった。

高校三年生の5月に、ふと「大学に行ったらどのくらいのお金がかかるのだろう」と計算した。

一ヶ月5,000円のおこづかいの僕にはとんでもないお金が、学校にも生活にもかかることがわかった。

ホンダに勤め、新興住宅地に家を建てている矢野家に進学のお金が無いなんて誰も思ってなかっただろう。しかし、母親はアルバイト2つをかけもち、さらに内職もしていた。

父親のパチンコ・競輪での出費が多い家だったのだ。

物心ついた頃から年に数回、父が母の財布からお金を取っているところを見てきた。サッカーのスパイクも、同級生が3〜4ヶ月に一つ親に買ってもらっているのを横目に、僕は残しておいたお年玉で年に2回買うということを高校三年生まで続けていたし、サッカーソックスも穴が開けば自分で裁縫していた。

「うちにはお金が無いから」が口癖の母親に、スーパーでお菓子をお願いしても、なかなか買ってもらえることがなかった。

冬の寒い夜に自室で一生懸命内職をしている母を思い出し、「自分が大学に行ったら母は倒れてしまうのではないか」と考え、さらに「2歳下に弟、7歳下に妹がいるから、いち早く矢野家の家計から外れないと」と考えた。

ホンダに勤める父を持つ自分は、当然のように奨学金の審査に落ちた。でも審査した人は、親の勤務先と年収を見ただけで、我が家にはお金が残らない仕組みになっていることは知らない。

そんな葛藤の日々の中で、自分を含む全てのひとを100点満点で納得させることはできないことにすぐに気づいた。

70点くらいで説得できる方向が「1年で卒業となる調理師学校への進学」だった。

ひとりだけ。

夏になる頃には孤独感すら無くなっていた。自分が進むべき道は決まったのだ。

学費だけなんとか家に出してもらって、生活費の援助は受けないことを決めていたので、学校に許可をもらってアルバイトも開始した。大阪への引っ越し費用や、運転免許の取得費用などいくらあってもお金は足らない。

そんなある日、校舎の下駄箱に入る少し手前で、一年生の時の担任だったM先生とばったり会った。

通称Mちゃん。

Mちゃんは、28歳(多分)のときに初の担任クラスとして僕らのクラスを受け持った若い先生だった。

若いだけでなく、考え方がかなり攻めていた。一流大学卒で、留学経験もアリの英語の先生。今思えばイケイケの優秀な女子大生がそのまま先生になったような人だった。

「どんどん恋愛しなさい」とか言っちゃう一方、怒ったら元ヤンかと思うほど怖かった。高校生の僕からすると少し”面倒な大人”とも思っていた。

そんなMちゃんに「実は調理師学校に行くんですよ」と説明した。挨拶だけで済ませても良い場面で、なんで自分から言ったのか今でも不思議。

でもはっきり覚えてる。絶対怒られると思った。

すると夕方の校舎の壁面をバックに背の低いMちゃん。

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「え?いいじゃん!料理人とかカッコいいよね!矢野のことだからちゃんと考えたんでしょ?」

と言って、そのままさーっとMちゃんは校舎に入っていった。

「矢野のことだからちゃんと考えたんでしょ?」にMちゃんの優しさと器が全て詰まっていた。

泣きそうになって初めて、自分は強がっていたことに気づいた。

不安で仕方ない自分の人生の選択に、たったひとり、大人が背中を押してくれただけで本当に安心できた。

「後悔しない選択にしよう」と本気で思った。

勇気のタネ。

今、SNSやニュースを見ても、「自分が損をしないように」「リスクを取らないように」というような事が多くて、世間が不幸に見えてしまう。

でも僕は、きっとこの世界は優しさで溢れていると思っている。

なぜなら、僕は自分の背中を押してくれる大人や、追いかけたいカッコいい背中に出会う事ができた。

今は自分のことばかり言う人が目立つけど、本来世界は「誰かにとってカッコいいチャレンジ」によって常に困難に立ち向かい、人間社会をアップデートしてきた。

今は「誰かにとってカッコいいチャレンジ」をする人が少数派というだけだ。

僕は、あの時「やっぱり大学進学にしよう」と考え直してもよかった。けど、たったひとり”攻めてる大人”がカッコいい背中を見せてくれ、僕の背中を押してくれた事で迷わなくなった。

勇気のタネはちゃんと芽を出すことができたのだ。

そしてその”たったひとり”のように、後輩世代にカッコいい背中を見せ、後輩世代の背中を押してあげられる大人であり続けようと努力を続けている。

誰かにとっての“たったひとり“になれたら、きっと僕はすごく幸せなんだと思う。

おまけ。

実は大人になって、初めて車を買おうというときに、嫌々ながら父に電話して「車のローンの保証人になってほしい」とお願いした。

「あとはお母さんに聞いて」と承諾をもらって、母と電話しながらローン用紙を埋めていくと

人生で初めて父親の年収を聞くことになった。

なんと、高校三年生の僕が悩むほどの家計ではなかったことが24歳にして判明した 笑

え?えええええーー!?

母親の内職は、“自分の老後のためだけの貯金“だったことも判明。

おかげさまで、立派な自立した大人になりました。

お父さん、お母さん、ありがとう 笑

自分の息子には好きな進路を選ばせます 笑

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