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多様化する価値観についての私見

はじめに

高度に情報化の進む昨今、ここ数年だけでみてもリモート化やマスク生活など様々な変化がありました。新たな文化が生まれれば、そこに新たな価値観が生まれます。今回はそんな次々と現れては消えていく新しい、そして時には到底理解できない価値観について書いてみたいと思います。

価値観の多様化

「価値観は人それぞれ違う」。これは小学校の頃から幾度となく言いつけられてきた、という人も多いかと思います。かく言う私もそのような経験があったと思います。しかしこの「価値観が異なる」という事について、知っていても理解し難く、時には異なる価値観の人達を軽蔑してしまうようなこともあるかと思います。

ここ数年における一番分かり易い価値観の変化といえば、SNSが挙げられるでしょう。LINEやTwitter、Instagram、TikTokなどです。

元々メールを主に使っていて、そこからLINEを始めて利用した人は、会話のように次々と送られ来るメッセージに、メールと同じようにひとつひとつ丁寧に返信していて「LINEから離れられない!」なんて状態になった経験はありませんでしたか?

これはLINEという新しい文化圏にメールという別の文化を持ち込んだ結果です。まぁこのくらいは直に慣れてしまって今はもう立派に既読スルーやスタンプを使いこなしてLINEの文化を会得したという人も多いでしょう。

しかしInstagramとなると少し毛色が変わります。いわゆる「インスタ映え」という文化の登場です。これは社会的にも話題となり物議を醸しました。「いいね」して貰える写真を撮るために、立ち入り禁止場所で撮影したり、店で注文した料理を写真だけ撮って食べることなく帰ったりなどの危険、迷惑行為が多発したのです。これは現在でも多少ましにはなったものの死んでいない文化ですが、インスタを使わない人からすればただただ衝撃だったことでしょう。ほとんどの人はお金が貰える訳でもなんでもないのにただ「いいね」を求めて時間やお金、時には自分の命さえ賭けてしまうのです。

最近では回転寿司チェーンでの迷惑動画が話題になりました。あれを文化と呼ぶには多少憚られる気もしますが、恐らく同じような行為をSNS上に投稿するような人たちは一定数いますし、消えもしないでしょう。裁判の結果次第で幾分かは変わるかもしれませんが。

ここで少し整理しましょう。
SNS上の迷惑行為が物議を醸したのは、「いいね」を貰うために常識外れの行為をすることが当たり前のように繰り返されていたからです。

しかし当の本人たちの言い分は「「いいね」が貰えるんだからそのくらいするでしょ」のようなものだったかもしれません。先ほど私は「お金が貰る訳でもないのに」と言いました。例えばこれが「多額のお金貰えるから」という理由であれば、賛成こそしなくとも理解はできるという人は結構いるんじゃないでしょうか。

ここに価値観の違いが現れています。単純に「いいね」というものの価値が両者の中で大きく食い違っているのです。ここまでは多くの人が考えていることだと思います。
 
 そこで一つ

価値観の有効範囲

ここで主張しておきたいのは「そもそも絶対の正しさなんてものはない」ということです。「正義の敵は正義じゃなくてそのまた別の正義」という言葉は割と有名だと思いますが、一昔前までの漫画やアニメ、映画、ドラマなんかでは、正義の味方vs悪の組織のような構図でした。これ自体も正義vs別の正義捉えることもできますが、悪の組織側は流石に異常者感が否めません。

それぞれが各々の正義に基づいて、要は得することをやった結果対立が生じている状態です。「人を助ける」という目的が同じでも両者が「自国民を助ける」ことを正義としていれば、互いの正義は犯しあうことができます。

SNS上での「いいね」にどれ程の妥当性があるのか正直私には分かりませんが、事実彼ら彼女らはあの数値に外部からは信じられないほどの執着を見せています。

そして個人的には「価値観とは同じ価値観を共有しているコミュニティ内でしか機能しない」と考えています。

この話を誰かにするときによく現代アートの例を出します。マルセル・デュシャンの「泉」という作品を知っていますか。とても有名な作品で見たことがある人もいるかもしれません。調べていただけると分かると思いますが、ただの便器なんですよね。既製品の便器に署名(本人の名前ではなく、皮肉のような名前)を加えただけという、素人がこれを芸術品と認めるにはあまりにイメージとの乖離が激しい作品です。

実際にはこの作品は作品展に応募された作品で展示されることは無かった上、紛失されたので値段こそつかなかったですが、素人目には「え?」とか「は?」って思うような作品が現代アートには多くあります。舐め放題の飴玉とか壁に貼り付けられたバナナとかです。

しかしそれにお金を払う人がいるのです。時には何百万とかそれ以上の値が付くものもあるかもしれません。それを我々は理解できないのです。しかし中には間違いなくその値段で取引されたものがあります。

このような場合、理解の仕方にはいくつか種類があるように思います。

一つは「バカなやつらだぜ!」と知性や理性を欠いた程度の低い集団であるため、理にかなった行いができないのだとすることです。迷惑行為に対してはこの捉え方の人が多いかもしれませんね。

もう一つは「自分はその価値観のコミュニティから大きく外れた位置にいる」とすることです。これは「理解できないことを理解する」という側面を持ちます。

これはつまり自分の価値観が決して絶対的なものではない、むしろひどく相対的なものであることを意識した理解の仕方です。

資本主義経済に生きる我々は、日常的に多くの価値観の違いに出会うことになります。しかし根本的には資本つまりお金に繋がっている、または変換可能な物事が多いため、その価値観のギャップそれ自体に目が向くことが少ないように思います。

しかし例えば未だに貨幣経済を導入していない人類集団がいたとして、その人たちに「10万円あげるからその魚ください」といっても拒否されるかもしれません。それは幾つかの理由があるかもしれませんが、究極的には「円、お金」の価値が両者で共有されていなことが原因であるといえないでしょうか。「円」に限って言えば、外国でも同じような事態になる可能性はありますが、両替が可能なのでシチュエーションは限られそうです。

このように価値観が共有されていないコミュニティ同士が出会うと、しばしば理解に苦しむことになります。資本主義社会において、お金という価値基準が根幹に位置し過ぎているため気が付き辛いのかもしれません。

なにより自身の価値観が相対的なものであると気づくためには、自身の価値観の外側の価値観と出会う必要があるのです。その点を思うと、その価値観を共有しているコミュニティが大きければ大きいほど、他の価値観の集団に対して無意識に傲慢になってしまう側面もあると思います。

その意味で言うと、「いいね」を至上の価値観とするコミュニティはその外側の我々の価値観からすると、資本主義という同じコミュニティ内に生じた特異点的な存在のように捉えられていますが、実際には局地的に生じた全く別のコミュニティとも捉えられます。

その根幹となるのは承認欲求という富です。

おわりに

長くなったので一旦切ります。気持ち的には半分くらいいったなって気持ちになっていたのですが、思ったより字数が多くでびっくりです。書きたかった結論なんかが丸ごと抜けることになるので、長々と分かりにくい話を垂れ流してしまったようで申し訳ない気持ちもありますが、気長に待っていただけると幸いです。


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