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「八葉の栞」第五章 後編


4月4日

第十四節

一同は沈黙した。部屋に漂う重苦しい空気が、皆の胸を締め付けた。
こんな場面はこれまでに何度もあった。だが、今回が最も深刻だった。
涼介は喉の奥で言葉にならない呻きを漏らした。その目は虚ろだった。
彼の心は今、完全に折れていた。

ジョシュは泣きながら涼介に抱きついた。
彼は元来より涙もろい性格だったが、このときほど悲痛な涙を流した記憶はなかった。

真桜は呆然としていた。彼女には、未来に起こることを予想できていた。
だが、わかっていても、つらいものはつらい。
目頭が熱くなるのを、抑えることができなかった。

茉莉花だけは違った。
真桜が見せたこの結果に、彼女は一切納得していなかった。

「こんなバカなことがあってたまるか」
「マリカ…」
「私は自分が嫌なものは決して認めない」
「マリカ!やめるにゃ!!」
「真桜ちゃん。教えて。どうしたら、この未来を変えられる?」
「マリカ!!!いい加減にするにゃす!」
ジョシュが茉莉花の前に立ち塞がり、尻尾を逆立てた。
「さっきから何にゃすか!マリカが気に入らないのはわかるにゃ!おいどんだって、こんなの嫌だにゃ!でも、リョースケの気持ちはどうなるにゃすか!?マリカは自分のことしか考えてないんだにゃ!」
茉莉花はハッとした。ジョシュの言葉が、彼女の胸に突き刺さった。
茉莉花は思わず、涼介を見た。彼はうなだれていた。ジョシュが涼介の膝に飛び乗る。
「リョースケはたくさん傷付いたにゃ。ここで手を引いても誰もリョースケのこと責めたりしないにゃすよ!」
そんなやつがいたら、おいどんがやっつけてやるにゃ!と言って、ジョシュは素振りした。
茉莉花は、ばつが悪そうに目を逸らして、ごめんと呟いた。

「今日はもう休もう」と茉莉花が言った。真桜の未来の記録と同じ台詞だ。それに気付いた茉莉花は、「灰谷さんも言ってたけど、疲れてたら、いざってときに動けないから」と、取って付けた。

涼介の去り際、茉莉花は揺るぎない瞳でこう言った。
「最終的な決断は涼介さん次第。だけど、私は最後まで諦めない」
重苦しい空気を背負ったまま、涼介は事務所を後にした。

涼介はマンションの部屋に帰ると、玄関の電気を点けた。
はるりは身体を失った後も、ずっと一緒にいてくれた。
僅かに残った『存在の力』で、彼の生活に寄り添ってくれたのだ。
その温もりが、今はもうない。

熱いシャワーを浴びた。全身に尋常ではない疲れが溜まっていた。
頭の奥に痺れがある。不意に、心臓に痛みが走った。
かつて負った古傷の存在を意識する。
真桜の記録の中で、はるりは彼の同じ場所を貫いた。
「どうして思い出してくれないの」という、彼女の言葉が蘇る。
涼介は未だに子供の頃の彼女を思い出せない。
きっと、一生思い出すことはできないのだろう。そんな確信があった。

はるりと再会したとして、彼らはどのように生きていくべきなのか。
涼介は『裏返し』の効果で『うたかた』の影響を受けないものの、周囲の人々は皆、はるりの記憶を失っていく。
涼介だけが彼女の記憶を蓄積し、周りとの齟齬が広がる。
彼は耐えられるかもしれないが、はるりはどうだろうか?
彼女が傷付いていく姿が目に浮かぶ。

『存在の力』で人々の記憶を保てるとしても、それにも限りがある。
はるりの力も次第に失われていくだろう。
周囲の存在に目を瞑り、ふたりだけの世界で生きていくしかないのか。
それを続けていくことは果たして可能なのだろうか。
それは、幸せなことと言えるのだろうか。
わからない。あるのは葛藤ばかりだ。

ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
彼の心は今も、はるりを求めていた。

涼介は浴室を出て、身体をよく拭きながら考えた。課題は山積みだ。
課題には必ず解決策がある。だが、それを実行できるかは別問題だ。

『うたかた』は、水鏡桜に十分な量の『存在の力』を返せば、消滅する。
どれほどの時間がかかるのか、見当もつかない。
けれど、不可能ではない。

問題は、はるりの心の穴だ。自分の存在が、彼女の心を傷付けてしまう。
では、離れていればいいのか?
影から彼女を見守って、『うたかた』を克服するまで待てばいいのか?
そんなこと、できるわけがない。
彼女をまたひとりにすることは、涼介にはできない。絶対にできない。

彼はテーブルに置かれた婚約指輪を手に取った。
真也の依頼を解決した夜、この指輪はほんの少しだけ、青白く輝いていた。
あの光は、はるりの魂が灯した最後の希望だったのかもしれない。

はるりの魂。
彼女の最も純粋な想いは、涼介と共にあることを望んでくれた。
彼らの想いは、きっと同じだ。

涼介は考えた末、ひとつの結論を出した。
はるりと向き合う。
たとえ、どんな結果になろうとも、彼女の傍にいる。

その決意と共に、彼は深い眠りに落ちた。
この夜、涼介は夢を見なかった。

4月5日

第十五節

翌日、涼介は午前7時に目を覚ました。
彼は広いベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
雲間から覗く、春の朝日が美しい。
今日は彼の運命を決める一日となる。
どのような結末が待っていようとも、ここが人生の分水嶺だ。

窓を開けると、清々しい朝の空気が彼の前髪を撫でた。
はるりの姿を思い浮かべる。心臓が高鳴るのを感じた。
万全の状態で挑もう。
涼介は陽光を肌に受け、昨夜の決意を胸に刻んだ。

まだ少し早いかもしれないと思いつつ、涼介は茉莉花にチャットメッセージを送った。彼女からは直ぐに返信があり、9時に事務所で集合となった。

涼介は日々のルーティンに従い、ジョギングに出ることにした。
こういうときこそ、日常の生活パターンを守るべきだ。

マンションを出た涼介は、思わず目を疑った。
ランニングウェアに身を包んだ真桜が彼を待っていたからだ。
「私も走る」
彼女はいつものように微笑んで、涼介に付いてきた。
「準備運動は?」
涼介が訊ねると、真桜は軽やかに両腕を上げて伸びをした。
「ばっちりだよー。さあ、行こう!」
涼介は頷き、ゆっくりと走り出した。真桜も軽やかな足取りで彼に続いた。
涼介と真桜には、30センチ近い身長差がある。
涼介は彼女に合わせて、緩やかなペースで走り続けた。

ふたりは瑞善寺川緑地を駆けていった。いつもの半分ほど走ったところで、折り返す。ちょうど水鏡桜が見える小橋の上がその地点となった。
涼介は反射的に水鏡桜に目を向けたが、そこにまだはるりの姿はなかった。

「涼介くん、やっぱ速いねー」
真桜がうっすらと汗を浮かべながら、息を整えた。
彼女もよく付いてきている。
さすがは賑やかな『カフェ憩』でワンオペをこなし、テーブルを駆け回っていたことだけはある。
「昨日ジョシュくんの能力を強化するのに、『存在の力』半分使っちゃったからなー」
真桜は少し悔しそうな表情をした。

「ちょっと歩きましょうか」
涼介は真桜と並んで遊歩道を歩いた。
隣を歩く彼女は、はるりよりもさらに若い。
昨日の真桜の話から考えると、彼女がはるりに『存在の力』を与えたのは、彼女が26歳のときだ。おそらく、そのときの姿のまま実在を得たのだろうと涼介は解釈していた。

いつか見た老夫婦が、眩しい笑顔で彼らに挨拶をした。
「おはようございます」
涼介たちは声を揃えて、挨拶を返した。
図らずも足並みが揃った挙動に、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「はるりは本当に良い人と出逢ったねー」
「そんなことないっすよ。はるりさんは、俺にはもったいないくらい素敵な人です」
「ふふふ、ありがとねー」真桜はそう言って、はるりのようにはにかんだ。

のどかな小道をのんびりと進んだ。
まだ、茉莉花たちとの待ち合わせには余裕があった。
涼介は歩きながら今後の対策を考える。
眉間にシワを寄せる彼の表情を眺めながら、真桜が口を開いた。
「私はね、人生に失敗なんてないと思ってるんだ」
涼介はきょとんとして、真桜を見返した。
彼女が言おうとしていることが、徐々に彼にも伝わった。
失敗や成功は、そのときその場で誰かが下す、あるひとつの時点での評価に過ぎない。同じ出来事でも、評価するタイミングや時代、または国や集団が異なれば、評価も変わる。
失敗は成功の基だというが、あれは一時的に付けられた失敗という評価が、何かの目標を達成した際に成功に変わるというだけのことだ。
「諦めない限り、人生に失敗はない。そういうことっすよね?」
「そう。そういうことっす!」
ふたりは再び微笑み合い、爽やかなハイタッチを交わした。

第十六節

「おはようございます」
事務所を訪れた涼介と真桜が挨拶する。
茉莉花は少し驚いてから、眠るジョシュの横腹をつついて起こした。
「ふたりで来るなんてめずらしいね」と、彼女はむすっとした声で言った。
今日もまた、彼らはテーブルを囲んだ。
涼介が淹れたコーヒーが、香り高い湯気を上げた。

「ジョシュさん。昨日は本当に、ありがとうございました」
「リョースケ…。決めたんにゃすね」
涼介はこくりと頷いた。
「昨日一晩、よく考えました。正直、有効な解決策は何ひとつ講じることができませんでした」
だけど、と涼介は、力を込めて続けた。
「俺ははるりに逢いたい。逢って、全力で彼女を受け止めたい」
彼の声には、不安と決意が入り混じっていた。
「だから、力を貸してください!!」
涼介はテーブルに手をついて、頭を下げた。
彼の渾身の誠意が、その場の全員に伝わった。
真桜は静かに微笑み、ジョシュは目を輝かせて涼介を見つめた。

「私は元々そのつもり。あんたももう止めないよね?」
茉莉花は真桜を見ながら言った。
「もう止めないよ。私も協力する」
真桜は微笑みながら、コーヒーを一口飲んだ。
「というわけで、今日は私から依頼させてください」
今度は真桜が頭を下げた。
「お願い!絶望の底にいるはるりを救ってください!!」
ジョシュは、「やってやるにゃす!」と気合を入れた。
涼介はこの仲間たちとなら、どんな困難も乗り越えられると心強く感じた。
一方、茉莉花は射抜くような鋭い瞳で真桜を睨んだ。
「あんた…もしかして、最初からこうなるように仕組んでたの?」
「そりゃそうだよー。私、母親だもん」真桜はしれっと言い切った。
「やれやれ…」茉莉花は呆れたようにため息をついた。
しかし、彼女はまだ何か判然としないものを感じていた。

茉莉花は片手でこめかみを押さえながら、諦めたような口調で話を続けた。
「あんたの狡知さは一旦措いておくとして、しっかり協力はしてもらう」
「何をしたらいい?」真桜の問いかけに、ジョシュが答える。
「昨日マオの記憶に触れたとき、別の人の記憶があるのが見えたんだにゃ」
「それは多分はるりの記憶だと思う。私が放出される1時間くらい前までの記憶しかないと思うけど…」
「数十分でも、数分でもいい。今は藁みたいな手がかりでも欲しいから」
「わかった。ジョシュくん、お願い」真桜が受け入れ姿勢を作った。
ジョシュは彼女の中から、はるりの記憶を掬った。
そして、目にも止まらぬ勢いで、ノートに光る文字を書き付けた。

はるりの記憶

第十七節

3月4日、23時10分。私は起き上がり、隣で静かな寝息を立てる涼介くんの寝顔を見つめた。
よく眠ってる。起きる気配はない。彼は今日、とても大きなプロジェクトを終わらせたばかりだ。カーテンの隙間から漏れる淡い光が、疲れの滲む彼の横顔を優しく照らした。
スタートアップ企業のWeb制作。彼らはスマート家電を主商品としていた。涼介くんは企画提案から構築、品質保証まで、すべての指揮を執った。
緊張の連続だった日々を乗り越えて、彼は今、安らかに眠っている。

『うたかたの契約』を交わしたあの日、私はあなたを失った。
明日のあなたは、あのときの私と同じ想いをするのかな。
本当は、こんなことをしてはいけなかったんだ。わかっていたはずなのに。
心の中で、「ごめんね」と呟いた。

私はベッドから立ち上がり、お気に入りの洋服に着替えて、レターナイフと本をバッグに入れた。
このふたつは私の宝物だから、最期のときまで一緒にいたい。

万が一のため、スマート家電の電源を切る。
人感センサーは今の私にほとんど反応しないけど、ここで気を抜くわけにはいかない。私の力はもう尽きるから。今日が最後のチャンスだから。

涼介くんはもちろんのこと、彼との共通の知人や友人の記憶を保つために、私はこの1年間で多くの『存在の力』を消費した。
『うたかた』を消すために、水鏡桜に還元するつもりで溜め込んだ力。
それをほとんど使い果たしてしまった。
もう残りの人生を費やしても、『うたかた』を消滅させるほどの『存在の力』を集めることはできない。でも、これが私の運命だったんだと思う。
最期に、この世で最も愛した人と過ごすことができて、私は幸せだった。

最期の夜は、風が冷たかった。
街路灯といくつかの家の窓が、人通りの少ない夜道を照らす。
商店街を避けて、瑞善寺川緑地に向かう。
偶然にも、涼介くんのジョギングコースをなぞる形となった。
地下鉄の駅、コンビニやファーストフード店はまだ開いていて、若者たちの談笑が、夜の町に活気を与える。
高級住宅街に入ると、静けさの中に自分の足音だけが響いた。
急に、心細さを感じた。

・・・

桜並木の前に立ち、水鏡桜の姿を見上げた。
冷たい風に身を震わせながら、私は水鏡桜に向かって一歩踏み出した。
静寂が一層深まり、川の流れる音、風に揺れる木々の葉音が、別れの音楽のように夜に響く。

空には朧な月が浮かんでいた。星はひとつも見えなかった。

これが私の最期。
過ぎ去った日々の記憶が、走馬灯のように蘇る。
良いことなんて、ほとんどなかった。
いつも、明日なんて来なければいいのにと思ってた。
涼介くんと過ごした毎日だけが、私の人生の光だった。

人ひとりの人生って、きっと他人が思ってるよりドラマチックだけど、でも本人が思ってるほどロマンチックなものじゃない。
それでも私は、あなたに私のすべてを知ってもらいたい。

あなたはきっと私を追いかけてきてくれる。
これは私の、人生最後のわがまま。
うまく伝わるかな。伝わるといいな。
こんなやり方しかできなくて、ごめん。
私のわがままに付き合わせてしまって、ごめんね。

もし、私に夢を見る心が残っていたら、明日の自分に希望を託すことができたのかな。生まれ変わった私が幸せな日々を送れるように、精一杯の努力をしたのかな。

わからない。もう私には考える気力がない。本当に疲れちゃった。
もう、限界なんだよ。

私はこれから消えてしまうけど、もしも願いが叶うなら、私はあなたの記憶の中で永遠に生き続けていきたい。
あなたの幸せを、ずっとずっと見守っていきたい。

私の中に眠るお母さんの魂に、最期の願いを込める。

時が来て、頭の中で何かが弾ける音がした。
身体中から青白い光が溢れ出て、意識が徐々に薄れていった。
私の存在は夜の闇に溶けていき、最後に見た水鏡桜の光景が、少しずつ色を失っていった。

4月5日

第十八節

はるりの記憶を読み終えて、一同は沈黙の中、顔を見合わせた。
「ジョシュ。今日は泣くなよ」茉莉花がジョシュに釘を刺す。
「わかってるにゃす!タイムリミットが迫ってにゃすからな」
ジョシュは涙声で答えた。頷く茉莉花も、密かに涙を滲ませていた。
時刻は10時を回っていた。はるりが水鏡桜の前に現れるまで、あと4時間。

涼介は冷静になろうと努めた。今必要なのは、共感じゃない。
客観的な観測だ。心を無にして、頭を動かす。
「解決すべき課題は、ふたつあります」
ひとつは、はるりに残る『うたかた』への対処。
もうひとつは、はるりの心の穴への対応だ。
「はるりさんの記録を読む限り、彼女はかなり後ろ向きになってる」
「ふむふむ。にゃんか、諦めてる気がするにゃすよね」
「これまでの彼女の人生を考えれば、そうなってしまうのは当然だと思う」

彼らは皆、はるりの孤独な人生を思い返した。
幼い頃からのいじめ、家族との関係、そして『うたかた』による孤立。
夢を描けばすぐに破られ、希望を持てばすぐに崩されてきた。
彼女の消極的な姿勢は、防衛本能により形成されたものだと言っても過言ではなかった。

「ちょっと言いにくいけど…」と、茉莉花が前置きする。
「真桜ちゃんには、私たちの『裏返し』を肩代わりできるほどの『存在の力』がある。その力を水鏡桜の還元に充てれば、『うたかた』を消すことができる…と思うんだけど、どう?」
確かに、人ひとりを生み出すほどの力なら、可能なのかもしれない。
だが、もしそうしたら、真桜は…。
涼介は隣に座る真桜に目を向ける。彼女の表情は明るかった。
「…できる。この力の量だったら、『うたかた』を消してもまだ余るはず。私、ダメだな。こんな当たり前のことを、自分じゃ全然気付けなかった」
ある問題の解決に、自らの存在の否定から入れる人間は、そうはいない。
また、その可能性を積極的に肯定し、採択することは尚更困難なはずだ。
涼介は言葉を呑み込んだ。ここで口を挟むのは、彼女の覚悟に対する尊重に欠けた行為だと感じた。茉莉花は言葉の先を続けた。

「『うたかた』への対応は、はるりさんを救った後に考えよう。真桜ちゃんがいてくれれば、『うたかた』を破る方法は必ず見つかる」
「おいどんたちも協力するにゃすよ!」
「…ありがとうございます」
真桜の犠牲を前提として話を進めることに、涼介は心を痛めた。
だが今は、この仮説に沿って話を進めていくしかない。

「『うたかた』が永遠に続くわけではないとわかれば、はるりの心の負担は大きく減るはずです。あとは…俺の存在ですね」
「リョースケにはごめんにゃんだけど…ハルリは多分、リョースケのことを信じきれてないんだにゃ」
ジョシュは申し訳なさそうに涼介を見る。
「ハルリは自分が消えたらリョースケが追いかけてくるって信じてたにゃ。でも、リョースケが助けてくれるとは思ってなかったんだと思うにゃす…」
「確かに…そうっすよね。はるりの記録を読んでも、頼られてるような感じはまったくしませんでした」
「それはそうなんだけど、私には彼女が本心を隠しているようにしか見えない。多分、彼女の中には、まだ微かな希望が生きてる。だけど、それを必死に隠してる…考えないようにしてるんだと思う」

そうなのだろうか?涼介は考える。
そうであって欲しい。
そうでなくては、今うまく行ったとしても、この先はない。
そう思えば、茉莉花の勘を信じることが、前進への唯一の道だ。
「はるりの中にある希望を見つけること。それが、今俺たちのやるべきことっすね」
一同は深く頷いた。

茉莉花は『八葉の栞』を駆使したが、はるりの記憶の変化は難航を極めた。
彼女の記録は短すぎた。そこにあるのは結果ばかりだった。
『八葉の栞』は、文中に明確な原因が記載されていなければ、使用することができない。
また、今回は別の情報をキーとして、再度記憶を入手することができない。真桜の中にあるはるりの記憶は限定的だ。
ジョシュが掬った断片的な記憶が、今や彼らの唯一の手がかりだった。
時間は刻一刻と刻まれていき、事務所の古時計が11時を告げた。

「このままだとまずい…」茉莉花の顔に焦りが浮かんだ。
「うー、この間みたいにアプリとかでどうにかならないにゃすか?」
ジョシュは涼介を見上げた。
玲於奈のときは、SNSという、謂わば外部の履歴から答えを導き出すことができた。だが、はるりはSNSをやっていなかった。
『うたかた』の特性を考えれば、それは当然のことと言えた。

「ちょっと待って…」と茉莉花が呟き、熟考を始めた。
彼女の脳内には、涼介が見せてくれた『VertexMaze』の図が浮かんでいた。アカウントという点を、関係性という線で繋ぐ、あの放射状の図だ。
あのときは、関係性を確認するために使用した。
何か、閃きの欠片が目の前にチラついた。

前提を変えて考える。
手元にある情報は記録、足りないものは時間だ。
記録を点、時間を線に置き換える…。
記憶と連想記憶。人と思い出。失敗と成功。すべての点を、線で結ぶ。

「わかった!」茉莉花は大声を上げて、立ち上がった。
一同は唖然とした。こんな彼女の姿を、彼らは見たことがなかった。

茉莉花は何件かの電話をかけた。
40分後、藤堂探偵事務所に7人の人物が集結した。

第十九節

事務所に集まったのは、真也、灰谷、玲於奈、龍五郎、文乃、佳乃、匡貴の7名だった。
茉莉花は『涼介のために』と強調した上で彼らに協力を要請した。
その結果、全員が都合をつけて、すぐに駆けつけてくれた。

茉莉花がこれまでの経緯を説明すると、驚きの声がその場に広がった。

「真桜ちゃん…結婚してたのかよ。このおっさんと…マジかよ…」
真也は神に見捨てられたかのような哀れな目で真桜と匡貴を見比べたが、「今、そういうのはいいから」と茉莉花に切り捨てられた。

「みんな、積もる話はあると思う。でも、時間がないから。後でいくらでも話していいから、今は力を貸して欲しい」
「俺たちにできることがあったら何でも言ってくれ」という灰谷の言葉に、「私、どんなことでもする」と玲於奈が続いた。
すべてを知った彼女の罪悪感は今、人生最大レベルに達していた。

「ありがとう。『八葉の栞』の能力は知ってのとおり。基本的には、ひとつの記録…物語の中でしか使えない。でも、気付いたの」
茉莉花はひとりひとりの顔を見た。
「この物語をはるりさんの人生として見たとき、みんなの記録を一遍一遍の短編として見立てることで、『連作』として繋げられるんじゃないかって」

つまり、各記録を章立てのように扱い、ひとつの大きな物語として、再構築するのだと彼女は言った。一同がまた驚きの声を上げた。

涼介はタブレットに各々の記録を時系列順に並べた。

  • 匡貴の記録

  • 玲於奈の記録

  • 佳乃の記録

  • 真也の記録

  • はるりの記録

「あなたたちの記録を、はるりさんの人生を描くひとつの物語とする。それぞれの記録を少しずつ『栞』で変えていくことで、はるりさんの意識に変化を与えていく。彼女に生きる希望を思い出させて、その内に秘められた本当の願い…彼女の本意を、読み取る」

一同は話し合った。今回は時間の問題からも、茉莉花の『存在の力』の残量からも、ほぼ一発勝負をかけないといけない。
誰の記憶の、どこにどの『栞』を使えば、どのような変化が起こり得るか。変化による反応は、記録の中に登場する本人たちが一番よく理解しており、誰よりも的確に予想することができる。

熟考に熟考を重ね、意見を出し合い、時に激論を交わした。
最後の最後まで考え抜いた。
苦心の末、みんなで築き上げたひとつの物語ができあがった。

匡貴の記憶(音の栞)

第二十節

『音の栞』使用前の記憶

「私は匡貴。水沢匡貴という」
君の名前は、と訊いてみる。
少女は明らかな躊躇いを見せたが、しっかりとした口調で答えた。
「私は、はるり…」
「はる…?」
「はるり!水沢はるり」
「水沢…私と同じ名字なのか。奇遇だな。はるり。とても良い名前だ」
少女は嬉しそうな顔で頷いた。彼女の頬が幸せに染まった。
迷いながらも、諦めずに伝えられてよかった。
彼女から、そんな安堵の表情が窺えた。

はるり。
もし私たちが子供を授かることがあれば、「春」が付く名前にしたい。
遠い日の記憶の中で、誰かがそう話していた。
頭の中に、その誰かの声が微かに響く。

「真桜…」私は不意に呟いていた。

その瞬間、脳内に見知らぬ光景がフラッシュバックした。
閃光のように過ぎ去る記憶の断片。
笑顔の女性、いつか交わした約束、小さな命の鼓動。
確かに在ったことのはずなのに、掴もうとすると、霧のように消えていく。

「どうしたの…?」はるりの不安げな声に我に返る。
「大丈夫だ。ただ、大切な何かを思い出しかけたような気がしたんだ…」
まだはっきりとは思い出せない。だが、それらが大切な記憶であることは、胸の奥に広がる鈍い痛みが訴えていた。

はるりの大きな瞳から涙が零れ落ちた。私は下ろし立てのハンカチを彼女の頬にあてた。彼女が、とても愛おしい存在に感じた。

玲於奈の記憶(月の栞)

第二十一節

連作化前の記憶

女性は自身も子供の頃いじめを受けていたと語った。
彼女は生まれつき身体が弱かったらしい。誰にも相談をすることができず、ただただ耐えるだけの日々を過ごしたのだという。
終わりの見えない地獄の毎日。心ない陰口。暴力。恐喝。頭の中で復唱することすら躊躇われるような、非道の数々。

記憶の奥底に眠る、人でなしの証左。
身に覚えがある。彼女から聞いた話は、かつての私の手口に酷似していた。客観的に聞くと、まさに鬼の所業だ。吐き気がする。心が苦しくなる。
なのに、私は目の前の女性を思い出せない。
その様子を察したのか、彼女は自ら名乗りを上げた。

「私は水沢はるり。憶えてない?」
水沢はるり?
その名を聞いても、私は彼女を思い出すことができなかった。
だけど、彼女のボロボロな爪を見て、心の奥底にあった記憶が去来した。
私は昔、罪の意識を以てあの爪を見ていた。
本当はダメだとわかっていたのに、自分を止めることができなかった。
記憶の奥底に閉じ込められた罪の意識が、少しずつ、息を吹き返す。
彼女の、今も変わらないその指先に、思いがけず涙が零れた。
遅すぎる、後悔の涙だ。
「あなたのことを…教えて」
涙が溢れ出した。はるりは驚いた顔で、私を見つめていた。

はるりはすべてを話してくれた。私は自分の犯した過ちを痛感した…いや、違う。私はいつも、こうだ。何かある都度、私は反省する。
そのときは本気で反省してる。それなのに、一度感情の波が去れば、すぐにいつもの自分に戻ってしまう。私はいつも、表面的すぎる。

私は彼女に今の素直な胸中を打ち明けた。
彼女はすべてを晒してくれた。今度は私の番だと思ったから。
「ちゃんと自覚してたんだ」と彼女は意地悪な笑みを見せる。
「自覚してたっていうか…今、自覚した」
「でも、それが最初の一歩だよ。諦めなければ、人生に失敗はないから」
「何それ…。それはまあそうかもしれないけどさ、人生ってそんなに簡単なもんじゃないじゃん」
「昔、私のお母さんが残してくれた言葉なんだよ。簡単じゃないのは、誰の人生だって同じ。だから、一緒に頑張ろうよ」
「はるり…」
この子は私を許そうとしてくれている。胸が詰まりそうだった。
だけど、私にはもうひとつ、彼女に謝らないといけないことがある。

「ちゃんとは思い出せないんだけど…多分、私…子供の頃の、あなたの夢をパクった」
刹那、はるりの表情が固まった。
「うん。知ってる。それについてはね…」
はるりは一瞬の間を置いて、言った。
「正直に言うとね、最初はこいつ本当にクズだなって思った」

「ごめん…。今は…どう思ってるの?」恐る恐る訊ねてみる。
はるりは深く息を吐いた。
「今は…なんていうか、お互い未熟だっただけなのかなって」
「え?」
「私は夢を守り抜く強さがなかった。あなたも本当の自分と向き合う勇気がなかった。だから…」
「だから?」
「だから今度は、お互いの夢を応援し合えたらいいなって思う」
はるりは顔を赤くして、はにかんだ。
「はるり…」言葉に詰まる私に、彼女は口元を綻ばせる。
「ふふっ、でも許すにはまだ早いかも。なので、今度あなたのお店のケーキ奢って!それで許してあげる!」

佳乃の記憶(香の栞&花の栞)

第二十二節

『花の栞』使用前の記憶

「それがあなたの香水なのね」私はようやく納得した。
「はい。私は調香に詳しくないので、レシピを参考に作ってみただけなんですけど、気に入っちゃって」
調香において、ノートは香りの構成要素のことだって聞いたことある。
強い百合のフローラルさと、軽い桃のフルーティさを併せ持つ香り。
『Spring Note』。

「春の香り。素敵な名前ね」
シンプルだけど、しっかりとした主張を感じる命名だと思った。

「それだけじゃないんです」
はるりちゃんは天使のような笑みを浮かべて、その真意を教えてくれた。
文は詩、詩は音の集まり。音は音符で表され、音符は英語でNoteと言う。
一遍の詩のような、調和が取れた香りのメロディ。永遠の友情の証。
それが春香ちゃんの目指した『Spring Note』だと、彼女は語ってくれた。

若さの為せる強引な連想。そこに逬る瑞々しい息吹。
文乃にはこんな素敵な親友がいたんだ。
そういえば、あの子にも百合の香水をつけていた時期があった。
それを思い出させてくれたはるりちゃん。感謝と感動が込み上げてくる。
「あの子が…春香ちゃんが、あのとき文乃を救ってくれたんだね」
「えっ、どうして…そのことを…?」
「思い出したんだよ。やっとね」

記憶が洪水のように押し寄せてくる。
春香ちゃんの優しい笑顔、文乃との楽しそうな会話、図書館で勉強する二人の姿。そして、あの日の病院の風景。医師の絶望的な言葉、私たち夫婦の涙。そして突然訪れた奇跡。

「あの子のことを忘れてしまってたなんて…自分が情けないよ」
涙が頬を伝う。
これは悲しみの涙ではない。大切なものを取り戻せた、喜びの涙だ。

「瑞木春香」
私は娘の親友…ううん、娘の恩人の名前を、一文字ずつ、噛みしめるように口にする。もう二度と、その大切な存在を忘れてしまわないように。

「『うたかた』で失った記憶なのに…こんなに、完全に、思い出せるなんて…信じられない…。こんなこと、あるの…?」
「はるりちゃんのおかげだよ。はるりちゃんと、きっとあなたの周りの仲間のおかげよ」
「周りの仲間?私の周りには、誰も…」
私は震えるはるりちゃんの両手を握った。
「そんなことないよ。今は見えないかもしれない。でもね、みんな繋がってるんだよ。繋がりはとても大切よ。はるりちゃんには、心強い味方がいる。私に文乃がいるようにね!信じてあげなきゃ、罰が当たるよ」
はるりちゃんは鼻を詰まらせながら、天使のように微笑んだ。
そして、彼女は涙声で言った。

「もう、十分…罰は受けました。もし許されるなら、私は幸せを掴むために生きていきたい。私はあの人を信じて、あの人と…涼介くんと共に、明るい未来を歩んでいきたいです」

真也の記憶(音の栞&陽の栞)

第二十三節

『陽の栞』使用前の記憶

「私、子供のとき友達いなかったんだ。いじめられてたしね」
俺の心を見透かしたみてえに、彼女は語り始めた。
「母は早くに亡くなって、父は刑事だったから、ほとんど家にいなくて」
「そりゃきついな」
「うん。寂しかったから、文通を始めたの」
「今はもうやってねえのか?」
「やってない。その人もね、いなくなっちゃったから」
「そうか…」
何だ?彼女は目の前にいるのに、俺じゃない誰かに話しかけてるみてえだ。彼女の心はもうここにはねえのか?諦めてたまるか!俺はパンクエナジーを爆発させた!!

「俺の夢はよ、ルーカス・レッドみてえに生きることだ!否っ!あのヤローを超えたパンクモンスターになることだ!!」
「え…は、はい…」
「夢なんて甘えこと言ってらんねえ!俺はロンドンに行く!もうタカさんにガタガタ言わせねえぜ!俺の燃えるパンクスピリットを見せてやる!!」
「あ、え、えーと、お店は?」
「この店は灰谷に任せるぜ。あいつのが向いてるしさ。へへっ、これが適材適所ってやつだ!」
「…なんかわかんないけど、夢を叶えるために頑張るのって、素敵だね」
お?こりゃ、俺に惚れたな?
「壁ってあるじゃねえか。自分にとって苦手なもんつーか、そういうやつ。人生ってやつはよ、その壁を乗り超えねえ限りは、いくら避けても逃げてもどこかで同じ壁にぶつかるようにできてんだよ」
女性が顔色を変えた。俺は勢いで喋り続けた。

「俺もずっと逃げてきた。正直、人生失敗したと思ってよ、コンプレックス抱えてたときもあったぜ。でもな、失敗か成功かなんて、人生のどの時点で評価したかで変わんだよ。まあ、こりゃルーカス・レッドの受け売りだけどな。ヤツは言ったぜ?『失敗を成功に変える努力と運が大切だ』ってな!」
彼女は目を見開いた。なんかピンと来るもんがあったって感じだぜ。
「お前の友達もよ、『The Crimson Royals』好きだったんだろ?なら、同じように思ってたはずだぜ?俺は、『Scarlet Revolution』を超える何かを見つけてみせる!お前もよ、自分のホントの気持ちを正直に出してみろよ!夢に向かって突き進んでいこうぜ!!」

「…ありがとう」彼女の声は小さかったが、確かな決意が感じられた。
「うん。私も自分の気持ちに正直になってみる」
女性の目には、涙が浮かんでいた。ああ、これで勝利のフィナーレだ。
「俺たちはパンクスだ。どんな壁だって、ぶち破ってやろうぜ!」
「おう!ぶち破ろうー!!」
「じゃあ、俺と一緒に愛のパンクロードに飛び出そうぜ!」
「え?わ、私っ、彼氏いるから、それは…ダメです」
「なんだって!?」
俺が驚きの声を上げたそのとき、なぜか店の裏から隼人が飛び出してきた。

「アニキ!ついに決意したんっすね!!俺は、この日を待ってたんすよ!!危うく俺はアニキの大事なモンに手え出しちまうところだった!愚かな俺を許してくれ、アニキ!!」
「な、何なんだてめえは!?」
「えっと、じゃあ私はこれで…!」
女性はそそくさを店を後にした。俺の恋は儚く散っちまった。

はるりの記憶(夢の栞)

第二十四節

『夢の栞』使用前の記憶

これが私の最期。
過ぎ去った日々の記憶を辿る。つらいことがたくさんあった。
だけど、素敵な出会いだって、たくさんあった。

涼介くん。あなたと出逢って、色褪せた毎日が輝き出した。
幸せだった。あなたの隣にいるだけで、空っぽだった心が満たされた。
私はずっと、あなたのようになりたかった。
私の憧れの人。最愛の人。

幼い日の記憶を辿る。
私を守ると言ってくれたあなたの言葉を、心の水面にそっと描く。

漆黒の夜空を見上げた。
どんなに深い暗闇の中でも、私の心には希望の光が灯ってる。
多くのものを失ってきた私だけど、大切な人々との繋がり、あなたとの絆、そして夢を見る心だけは、今もこの胸に残っているから。

私はあなたに、私のすべてを知ってほしかった。
過去の傷も、今の弱さも、そして未来への希望も、すべてを。
すべてを知ったうえで、私を受け止めてほしかった。
私は、あなたがまた私を選んでくれることを望んでいる。

涼介くん。
もし、一度だけ…もし人生で一度だけ、自分が望んだ奇跡を起こせるなら、私はまたあなたと出逢いたい。

ずっと一緒にいてほしい。いつかあなたのことを思い出してみせるから。
そしたら、いつものあの笑顔で、おかえりって言ってもらいたい。

明日の私たちの幸せを、ようやく見つけた、たったひとつの星に願った。

4月5日

第二十五節

涼介はノートから顔を上げた。13時40分。今なら間に合う。
みんながここまで繋いでくれた。みんなの記憶が、みんなの思いが、はるりのたったひとつの望みに涼介を導いてくれた。
行かなくちゃ。そうわかっているのに、足が震えた。
涼介は愕然とした。ここに来て、なぜ俺は怯えているんだ?
嘘だろ…。足ばかりではなく、身体にも震えが伝わってくる。

心配する一同の中で、灰谷が足を踏み出した。
「清宮。これまでお前は苦しみ、傷付いてきたことだろう。恐れを感じるのはわかる。だがな、今行かなければ、お前は一生後悔するぞ。お前になら、必ずできる。自分を信じろ!」
龍五郎と佳乃も、灰谷に続く。
「君は我が認めた漢だ。闇の呪縛に囚われし姫を救えるのは君しかいない」
「そうだよ。あの子はあなたを信じてる。あなたなら、きっと応えられる」
涼介の胸中は、彼らへの感謝の気持ちで溢れていた。
それなのに、彼はまだ動けずにいる。
不意に、茉莉花が彼の眼前に立ち、彼の頬を平手で打った。

「マリカ!何してるにゃすか!?」
茉莉花はジョシュを無視して、涼介を怒鳴りつけた。
「私はあなたのことが好きだった!もしはるりさんが見つからなかったら、私と一緒になればいいと思ってた!!」
事務所にざわめきが生じた。え、やばくねといった声が聞こえたが、茉莉花は無視して続ける。
「でも、はるりさんが歩んできた過酷な人生を知って、彼女を応援したいと思ってしまったの!私たちが助けなきゃダメなんだって思ったの!!」
「茉莉花さん…」
「前に話したよね?私とジョシュの能力にもデメリットがある。私たちは、能力を使わずにいると、記憶が消えたり、変わってしまったりする」
「あっ…」涼介は思わず、声を漏らした。
思い返せば、彼女たちは頻繁に過去の出来事を忘れたり、記憶違いを起こしていた。今ようやく、その理由に思い当たる。

「私たちは能力を消す方法を探してるの。毎日きついけど、私たちはふたりだから頑張れてる。でも、はるりさんは違う。あの人は、たったひとりで、ずっと孤独に戦ってきた!誰かがあの人を支えてあげないとダメなの!!」
「…はい」
「あなたが一番はるりさんを助けたいと思ってる!そうでしょ!?だから、行ってよ!今すぐに、あの人のところに行かなきゃダメだよ!!」
「はい!」
涼介は右手を握った。もう震えはとまってる。大丈夫だ。
「俺、行ってきます。はるりのところに」
「リョースケ〜!!」
「ジョシュさん…茉莉花さん!みんな、ありがとう!!」

涼介は駆け出した。階段を降り、商店街を走り抜けようとしたとき、事務所の窓から真桜が叫んだ。
「涼介くん!オーナーには話、通してあるから!はるりに教えてあげて!」
それが何を意味するのか、涼介は瞬時に理解した。
「わかりました!」と彼は叫び返した。

真桜の隣にいた匡貴が、静かに窓から身を乗り出した。
涼介に向けられた彼の眼差しには、「はるりを頼む」という強い意思が込められていた。涼介はその思いを受け止め、力強く頷いた。

今度は真也が窓から顔を出した。
「また、『Scarlet Revolution』聴かせてやっからよ!俺がロンドン行く前に顔見せろよ!」
真也のイカしたサムズアップに、涼介もサムズアップで返す。

続いて、玲於奈が叫んだ。
「私、はるりが羨ましかったの!あんなに純粋で、真っ直ぐで、素敵な夢を持ってて…。お願い!私に、あの子に謝るチャンスをください!!」
「任せてください!」と涼介は決意を込めて応じた。

次は文乃が顔を出す。
「私、調香師になるって決めたの!夢に向かって、一緒に頑張ろうね!」
涼介は文乃のくだけた口調を初めて聞いた。
新しい一歩を踏み出すにふさわしい出だしだと感じて、自然に優しい笑みが浮かんだ。

最後に、ジョシュが顔を出した。
「みんなで引き止めちゃってごめんにゃ!頑張ってにゃすー!!」
「ありがとうございます!!」
涼介は深く頭下げて、商店街の出口に向かって走っていった。

第二十六節

「行っちゃったね」と真桜が言った。
「リョースケならきっと大丈夫にゃす!」
「そうだね」と言って、文乃がジョシュを抱き上げた。
茉莉花は壁に向かって、ため息をついた。
「やっちまった…恥ずかしい。忘れたい」
にゃふふとジョシュが笑い声を上げたとき、茉莉花の手から光が放たれた。
光は徐々に輝きを増していく。
「これは…」
茉莉花の右手に、『夢の栞』が浮かんでいた。
茉莉花ですら、初めて見る現象だった。
ふと気付いて真桜を見ると、彼女の身体も眩しい光を発していた。
まさかと茉莉花が思ったとき、室内に青白い閃光が走った。
光が消えたとき、真桜の姿はなくなっていた。
彼女が居た場所には、一冊の本が置かれていた。
『水鏡桜とうたかたの少女』だ。
茉莉花たちは、能力を消すヒントを掴むために、この本を欲していた。
真桜からの成功報酬。そういうことだと、茉莉花は解釈した。

「いったい何が起こったんだにゃ?」
ジョシュが目をこすりながら、茉莉花に訊いた。
『裏返し』と、茉莉花が答えた。
「『夢の栞』で起こした変化が現実になった。矛盾が生じないように、各々の記憶の変化も現実化してるはず」
真桜は最初からこうするつもりだったんだ。
茉莉花はため息をつき、敬意を込めて、「お疲れさま」と呟いた。
「ありがとう」と、どこからか声が返ってきた。真桜の声ではない。
茉莉花が聴いたことのない声だった。

その瞬間、彼女はすべてを悟った。
真桜の説明を受けたときから感じていた疑問が一気に氷解した。

なぜ、涼介は藤堂探偵事務所を訪れることを思い立ったのか?
なぜ、連城隼人は盗難事件を起こしたのか?
なぜ、玲於奈は過去の悪行を全面的に悔いたのか?
なぜ、文乃は事故のときの夢を見るようになったのか?
なぜ、匡貴は茉莉花たちの訪問をすぐに受け入れたのか?

偶然ではありえない。
誰かがきっかけを作ったのだとしか思えなかった。

はるりと真桜は様々な仕込みを用意していた。
茉莉花たちが気付いたものがすべてではないだろう。

町民の悩みが依頼へと発展せず、使われなかったもの。
依頼内容や使用する『栞』の変動により、表に出なかったもの。
そして、仕込み自体が有効に機能しなかったもの。
そんな、日の目を見ることがなかった仕込みが、いくつもあったはずだ。

しかし、最初のきっかけとなる決定打は、はるりにも真桜にも作れない。
真桜の他にも、誰かが暗躍していなければ、ここに至るまでの流れは決して生まれなかったはずなのだ。

「あなたもお疲れさま」と、茉莉花は空に優しく囁いた。
「ほにゃ?何だにゃ?」ジョシュが茉莉花の足元をうろつく。
「何でもないよ。今度、気が向いたら話す」
「むー。まあ、いいにゃす!それにしても、さっきのマリカは熱かったにゃすな!おいどん、ああいうの好きにゃすぞ!」
「忘れろ。私はただフラれただけなんだから」
茉莉花はまたふうとため息をついた。
ジョシュはそんな茉莉花の肩に飛び乗った。
「安心するにゃ!おいどんがずっと一緒にいてやるにゃす!」

茉莉花はジョシュの額を小突いて、花のような笑みを咲かせた。
「うん。頼んだぞ、相棒」

第二十七節

瑞善寺川緑地に向かって疾走する。
たまに訪れる信号待ちが、もどかしかった。

はるり。今まで、ひとりでつらい思いをさせてしまって、ごめんな。
はるりが俺のことを思い出せなくても、俺の想いは変わらない。
また一緒に、思い出を作っていこう。

緑地に入り、川沿いの桜並木を目指して走った。
額から流れる汗が目に入るのも構わず、走り続けた。

真桜からのメッセージが蘇る。
彼女は先日、『カフェ憩』のオーナーに新しいスタッフを紹介すると話していた。きっと、彼女は話せる限りのすべてをオーナーに伝えたのだろう。

カフェ経営ははるりの夢だった。
真桜は彼女のために、その夢の舞台を用意したのだ。
真也の音楽に玲於奈のスイーツ、文乃からは書籍や雑誌も提供されて、今や『カフェ憩』は商店街で最も賑やかなお店となっている。

真桜からはるりへのプレゼント。それは必ず、俺が繋ぐ。

ふたりで匡貴さんに会いに行こう。
共に幸せを報告し、彼の十八番のカルボナーラを一緒に作ろう。

茉莉花さんとジョシュさんにも挨拶に行こう。
彼女たちには、感謝しかない。ふたりで恩を返していこう。

真也さん、灰谷さん、九条さん、龍五郎、文乃さん、佳乃さん…
みんなに会いに行って、新たな絆を紡いでいこう。
ふたりの人生をひとつに重ねて、共に明るい未来を歩んでいこう。

水鏡桜が見えてきた。残り僅かな距離を、全力で走り抜ける。

・・・

これにて、語り手としての『私』は、役目を終える。
最後に、藤堂茉莉花が私の存在に気付いてくれたことに感謝する。
あの優秀な探偵たちがいなければ、ここまで辿り着くことはできなかった。

真桜。はるり。私は少しでもあなたたちの力になれただろうか。
幸せになってほしい。いや、きっと清宮涼介ははるりを幸せにしてくれる。ふたりで幸せになっていける。

文乃。さようなら。
調香師になると言ってくれたあなたの言葉、とても嬉しかった。

応援してるよ。いつまでも、絶対に。

エピローグ

桜舞う川のほとりにひとり、私は佇んでいた。
柔らかな風が吹き抜け、薄紅色の花びらが髪に絡まり流れる。
見上げると、桜並木が歌うように揺れている。
雨のように降り頻る花びらが、辺りを春色に染めていく。

ふと、人の気配を感じた。
振り向くと、若い男性の姿があった。
背が高くて、どこか凛々しいその顔は、汗にまみれている。
だけど、その表情はとても穏やかだ。
私を見つめる彼の瞳は、優しさに満ちていた。

不意に強い風が吹き、散り行く花びらが宙に舞う。
陽光を浴びて、桜の花弁がきらきらと輝いていた。
星屑のように光る花びらたちは、よく見ると小さな泡をまとっていた。
花びらの一片一片、それを包み込む光の泡に、人々の顔が浮かんでいた。
泡が弾けるたび、心の隙間が埋まっていく。
これはきっと、私の思い出の欠片だ。そう、確信した。

「はるり」
誰かが私の名前を呼んだ。はるり。水沢はるり。それが、私の名前。
大きな桜を見上げると、ふたりの女性の影がうっすらと見えた。
とても懐かしくて、恋しい。気付くと、涙が零れていた。
よく頑張ったね。すべてを包み込んでくれるような、暖かい声。
その声が消え去ると、ふたりの影もまた消えていった。

私は視線を目の前の彼に戻す。
風がやんで、白く輝く花びらが、雪のように降り積もっていく。
彼が優しく微笑んだ。私も彼に微笑み返す。
大丈夫。私は彼の名前を知っている。
私は、希望に満ちた想いを胸に、彼の名を呼んだ。
彼は私を抱きしめて、言った。
「おかえり、はるり」
白い桜の花びらが、ライスシャワーのように、ふたりを祝福していた。


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