自分の現実は自分で創っていると理解できるか〜エーテル体とアストラル体⑥〜

きょうは、アストラル体のすごい話。



エーテル体とアストラル体を
『横に並べて』
これらは右と左のようなもの、
と説いているのはわたしだけだが。


すこしくらいは似た説明をしているものに、
ルドルフ・シュタイナーの思想体系がある。


ルドルフ・シュタイナーの教えでも
肉体よりも上位に位置する
『見えない身体』については、
ほとんど常識レベルで取り入れられており、


こちらでは

肉体<エーテル体<アストラル体<自我

という4段階。



最上位の自我は、
ドイツ語ではガイストだから、
霊とも精神とも訳せる。
社会学方面ではかなり有名な、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
という本があって、
マックス・ヴェーバー著、
大塚久雄訳。
これの『資本主義の精神』の部分が
ドイツ語では、
たしか
『ガイスト・デス・カピタリスムス』
だった。



ちなみに、
アストラル体は『ゼーレ』だよ!?
(ネルフは神経です)
(エーテルはエーテルのままです)
(ドイツ語的な発音にはなるかも)


でね。
どうにも自我というワードは、
日本のスピリチュアルにおいては、
どちらかというと低次元な扱いですから。
悟りとは自我の克服である、
というような。
なので、
ルドルフ・シュタイナーの体系では
4段階の最高位は『自我』である、
というのは、
ちょっと個人的にアレなんですけど。
最初に翻訳を担当された、
高橋巌先生あるいは西川隆範先生が、
『自我』という単語に高次元を感じていたのでしょうね。


それはさておき。
シュタイナーの体系では、
人類の進化、
というのが説かれていまして。


①人間は肉体を持つ
②人間がエーテル体を持つ
③人間がアストラル体を持つ
④人間が『自我』を持つ
(※いまこの④の時点に人類はいます)
⑤『自我』がアストラル体に浸透する
⑥『自我』がエーテル体に浸透する
⑦『自我』が肉体に浸透する



人類はこのような順序で
進化してゆくとされており、
いまは
④人間が『自我』を持つ
が完了しつつあり、
⑤『自我』がアストラル体に浸透する
を開始しようかどうかという入口くらい



浸透する、
という表現は分かりづらいでしょうけど、ここは『使いこなす』くらいの理解でじゅうぶん。



というか、
その前の
④人間が『自我』を持つ、
というのはですね。
たとえば、


『わたしは死んだらどこへゆくのだろう?』


と考えるのも、
この説明でいえば、
『自我』の働きですね。


人間とは肉体である。
という理屈に何の矛盾も感じていない人にとっては、死んだらそのあとは?という疑問は出てこないはずなのです。



つまり、
(肉体が)死んだら(わたしは)どこへゆく?
ということを考えることができるのは、


その人の、
肉体とは別個に、
独立して存在している
『わたし』(自我)が、
(肉体の)死後について考えているから、
ということなのです。


これは、
逆に言えば、
人類進化の七段階のうち、
④人間が『自我』を持つ
まで到達したからこそ出てくる疑問であって、
①②③の時点では、
そんなことは誰も考えなかった、
ということにもなります。
この時点では、
ひとりひとりの人間が
『わたしは、、、』
と考える能力を
まだ持っていなかった、
とされます。



ちなみに①よりも手前は
アトランティス時代です。
(※ルドルフ・シュタイナーの世界観ではね)




でね。
いまこの時点で
(※2021年現在という今の時点で)
アストラル体について習熟するなら、
これはもう、
ルドルフ・シュタイナーが言うところの、

⑤『自我』がアストラル体に浸透する

に、
取り組んでみるべきだと
思いませんか??



そうして、この、

⑤『自我』がアストラル体に浸透する

という現象??を
別の言葉で説明するなら、
『引き寄せの法則を使いこなす』
すなわち
『自分の現実は自分で創っていると知る』
ということになります。





複雑な話なので、
順を追って説明します。
まず、
そもそもアストラル体というのは、
(※人間のすべての活動はエーテル体とアストラル体に二分される、という見方でいえば)
自分の身体を動かして、
現実世界で活動することはすべて、
『アストラル体の活動』です。


でね。
『エーテル体とアストラル体』
というこの連載シリーズ特有の世界観では、
(※肉体それ自身が何かをしているという見方は一切やめて)
人間のすべての活動はエーテル体によるものかアストラル体によるものかのどちらかである。
という設定ですよね。



『唯物論世界からの脱出』
というのがこの連載の趣旨なので。



『唯物論的には』
何もかもが物質、
ということになっているのだけれど、
あえて、
それを逆転させて。
①物質そのものは何もしない
②すべてはエーテル体とアストラル体の所産である、
と。


そんな世界観で記述されているのが
当連載の際立った特徴であり、
だからこそ、
今回もその路線で、
『自我がアストラル体に浸透』
について説明してゆきます。


さきほどの、
『死んだらどうなるの?』
という疑問も、
ルドルフ・シュタイナーの4段階モデルでは、最上位の『自我』がそれを考えていることになりますが、
本連載での、
エーテル体とアストラル体しか存在しない世界観では、
エーテル体はエーテル体のあの世に、
アストラル体はアストラル体のあの世に、
それぞれ帰還します。
という答えになります。



こちらの連載では
扱わない予定ですが、
エーテル体とアストラル体を
『手足のように』使いこなしている
『本体』が、
ルドルフ・シュタイナーの体系では
『自我』(ガイスト/精神/霊)
と呼ばれている、というわけですね。
わたしだったらそれを
I am.
と呼びます。


ああ、だからね、
『本体』が
エーテル体とアストラル体を
『手足のように操って』
人間界での人生という物語を生きている。
そんな、
エーテル体とアストラル体が動作した
『残像のようなもの』
が、
肉体。


というのが、
オカルト的観点から見た、
肉体なるものの正体です。



その見方が当たり前になってしまうと
『死ぬのが怖い』
すなわち
『肉体が消失するのが怖い』
という見方はできなくなりますよ!?
だって、
肉体というのは、
エーテル体とアストラル体の活動によって生じた
『残像』
ですから、、、、、



(※人間を唯物論世界に閉じ込めている根本理念は死の恐怖なので、これを克服できると唯物論世界の外に出られます。これはほとんど『生きたままこの世の外に出る』ような体験です)





じゃあ、
ちょっと話を戻しますが。
『ここにわたしがいて』
『目の前に世界が広がっている!』
という体験ができるのは、
アストラル体の賜物です。



肉体とエーテル体があれば、
とりあえず『生きた人間』であることに間違いないのですが、
もしも『アストラル体が無い』場合は
その人は重度の障害者ないしは植物人間になってしまいます。
外界を認識して、
それに対して行動を起こすのは
アストラル体の力だからです。



では、
ここで問題。
というか、
こんなに大きなクォンタムリープを
こんなにあっさり書いて良いものか、
迷うのですが。


いままでは、
唯物論的に、
①あなたには肉眼があり
②だからこそ目が見える
③だからこそ目の前に世界が広がっている!(のが見える)
という理屈だったと思います。
それが当然だったと思います。



この原稿を読んでいるあなた、
ちょっと画面から目を離して
まわりを見渡してみれば、
いろいろなものが『見える』でしょう??



これらのものが
『見える』のは、
唯物論的には、
『肉眼の力』であり。
そこにある
いろいろな物たちは、
あなたとは別個に、独立して存在している、ということになります。
つまり、あなたにできることは『目が見える』というところまでで、それ以上、そこに何が見える(何が置いてある)かまでは、あなたには決められない。



ところがですね、
この連載の世界観では、
それは肉眼ではなく、
『アストラル体の力』ということになりました。
すると、どうでしょう??



アストラル体の力によって、
『自分がいて』
『自分のまわりに世界が広がっている!』
という世界観そのものが
創り出されているのです!


どういうことか??
あなたの『目が見える』ということだけではなく、
あなたのまわりにある小道具たちさえも、
あなたのアストラル体の力で創られている、
ということです。



あなたがいま室内にいるとして。
部屋にあるひとつひとつの小物は、
物理的に『部屋に運び込まれてきた』からこそ、そこにある。それは事実でしょうよ。
でもさ、
全体的な
『部屋の雰囲気』というのは、
あなた自身の在り方を反映していると思いませんか??
あなたの部屋はあなた自身を
少なからず反映していますよね??



ここで、
インテリア、
とかのワードを使えば、
視覚化可能なものに置き換えられ、
物質世界の客観性が持ち込まれることになるのですが。
そうした言語化可能なものとは別に、
それとなく生じてしまう『雰囲気』のようなものがあって、
それは、
(そこがあなたの部屋であるのなら)
あなた自身の反映です。



つまり、
自分の部屋はどんな部屋か、
ということの答えは、
そっくりそのまま、
自分はどのような人間か、
ということの答えです。



わたしの部屋は、
(※ひとり暮らしなので100%完全に自分自身の反映です)
本がたくさんある、とか、
女性ホルモンの空き箱の山とか(笑)、
女の子同士が見つめあっているタペストリーが飾られている、とか。
ほんとうに
あまりにも『自分らしく』て
笑えてきますが、


いちばん力を持つのは、
そうした『視認可能な』部分を取り除いた、幼児にも動物にもわかるような『雰囲気』の部分です。


わたしとしては、
この世のどんな場所よりも
自分の部屋は居心地が良いと
感じられるので、
そのとおり。
自分で自分が大好きだし、
運も良いし、顔も可愛い。



こんなふうに、
『自分の空間は自分で創っている』
のです。




では質問。


ここで、
あなただったら
どこまで
『自己責任』を
背負えますか???


とくに、
家族がいてままならない、とか、
家が狭すぎる、とか、
理解可能な理由なら、
ほんとうにいくらでも出てくるものなのですが。


しかし、
原理原則から言えば、
『自分の空間は自分で創っている』
のであり、
それは、
そっくりそのまま、
あなた自身のアストラル体の反映です。


背負えますか???





わたしの場合は
ひとり暮らしなので。
自分の部屋だけなら、
自分ひとりで完成させられる。


なので、
次の段階としては、
外出先での
『雰囲気の良さ』
『運の良さ』
を保てるか。
勤務先での
人間関係における
『雰囲気の良さ』
『運の良さ』
を保てるか。


ということが次のチャレンジになります。




すこし補足すると、
とくに人間関係が絡む場合は、
勘違いしやすいですが、
『相手からみて』
『わたしは雰囲気が良いか』
ではなく、
場面全体での
『雰囲気の良い空間かどうか』
がポイントです。
つまり、
自分以外の人が
勝手に怒鳴り散らしていて、
自分が当たられたわけじゃないけど
雰囲気はサイアクだった。
という場合、
そんな『雰囲気の悪い空間』に
居合わせてしまった
『自分自身の運の無さ』
というふうに解釈してください。




かなり強烈なことを言いますけど、
『自分自身の居合わせる空間』は
『たまたま居合わせた』わけではなく
(※それだと唯物論!)
アストラル的には、
あくまで
『自分自身が創り出した』
ものなのです。


物理的に(=唯物論的に)
『どこかへ移動している』
つもりでいても、
アストラル的には、
『自分自身を中心地点としたエネルギー放射』があるだけなので、
ひどい空間に居合わせてしまったとしたら、
それは、
自分自身のエネルギー放射が
『ひどい内容だった』
ということです。



これは
一朝一夕で改善できるものではないし、
それどころか、
慣れないうちは、
こんな世界観は、
拒絶したいかもしれない。


でもね、
唯物論的=物理的には、
『空間を移動している』
のだとしても、
アストラル的には
常に
『自分自身を中心にして』
『エネルギー放射を行い』
『そこに空間を創り出している』
というのが真実なのです。



その見方が当然になってきたとき、
あなたはアストラル的世界観を
理解するでしょう。



当然の事ながら、
そのときには、
すでにあなたは
唯物論世界の外にいます。



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#エーテル体とアストラル体
#唯物論世界からの脱出

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