re;cycle
「人というのは愚かな生き物だ。」
幾度擦られてきた文言だろう。
様々な人間が様々な文脈において様々な声調と表情を以て発してきた。
そんな先人たちに僕も続こうと思う。
「人というのは心底愚かな生き物だ。」
どうして愚かだと思うのか。精一杯論理的に書こうと思った。しかし同時にそこに論理を求めてもどうもならないのだろうとも思う。
だから今回ばっかりはただ感情に任せ、僕自身が人間のどんなところを愚かだと「思う」のかを書いていくことにしよう。
僕はとにかくあれだ、人間(ここでの「人間」は主として自分なのかもしれない)という生き物が本質として内包する「矛盾」にとてつもない違和と不快感を感じている。
どこまでいっても自己中心的であるくせに結局比べるのは他人だし、弱い自覚はあるのに強いふりをするし。
本当に愚かだと思う。とことん合理的でない。
しかしまぁそう考えてみれば「合理的」って何なのだろう。
この混沌とした自然界には元々はなんの論理もないはずだ。少なくともこれが近現代的自然観のメジャーな思考法だ。これを読んでいるあなたが目的論的自然観の論者なら本当に申し訳ない。
ともかく、そんな言葉も意味も概念も境界も何もない自然の中に人間が無理やりはめ込んだ「論理」など異物でしかなく、そのスケールで語るならば全ての論理は詭弁だ。「論理的」、「合理的」そんな言葉は
(ただし人間という愚かな生物種が妄想したフィクション的世界観において)
の括弧書きなしには運用できるはずがない。
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ん??なんかおかしいような気もするな。
上記の言い方だと「人間とは混沌とした自然界に論理を持ち込む特別な存在で、侵略者で、世紀の悪者だ」と言ってるようにように聞こえなくもない。
それは少し違う気がするぞ。
人間が無理やりはめ込もうとする「論理」は確かに自然界にとっては異物かもしれない。
しかし当の人間はどうだろう。自然界にとって異物なのだろうか。「異物」になれるほど特別な存在なのだろうか。
所詮人間もこの混沌とした無論理な自然の一部なのだとしたら…いやきっとそうなのだろう。少なくとも僕が前提においている機械論的自然観の立場から言えばそうでなくてはならない。
だとしたらどうだ。僕の大嫌いな人間の愚かさ=「矛盾」もこの自然界の混沌の一部なのかもしれない。
人間は混沌の一部として「矛」となる感情を発し、混沌の一部として「盾」となる感情を発する。
そう思うと、人間のことを、ひいては自分のことを少しは好きになれる気がする。だって僕が考えていた愚かさってものすごく「自然」なものなんだぜ?素敵なことじゃないか。
いや待て、じゃあなんで僕はこの矛盾に嫌悪感を感じているんだ?
あー、この嫌悪感すらも矛盾なのだ。矛盾に次ぐ矛盾なのだ。
客観的に自分をみようとすればすぐに矛盾が目につく。そして客観的に見ようと思っている自分をまた客観的に見るのだ。また矛盾だ。さらにそれを客観的に、客観的に、、、これを繰り返す。
どうだろう。こうしていればいつかは死んで何も考えなくて済むようになるのだろうか。
或いは主客未分の世界線に到達することができるのだろうか。
あぁ、やっぱり人間は愚かだ。だから大好きだ。
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