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「雨」をきっかけにして考える。「なぜ」や「なにが」の大切さ。

中学か高校の頃から、とにかく雨が嫌いで、曇り空から雨粒が落ちている光景を窓から見た朝は、憂鬱でしかたなかったことを思い出します。登校せずにすむ方法はないかとあれこれ考えるものの、結局毎回行くことに変わりはありませんでした。

雨の側からすれば、なぜそこまで嫌われなければならないのかと困惑するかもしれませんが、私自身も雨が嫌いな理由を明確にできずにいました。特に考えるメリットもなかったですし、理由を考えるよりも先に「嫌い」という感情が先立ったことが大きかったからだと思います。思考が主張する余地は一切ありませんでした。
人は何か結論を出すと、その理由を考えようともしない。「なぜ」や「なにが」を考えれば、その原因がどのようなことから起きて、自分が安易に出した結論とは異なる可能性もある。でも、どうしてもそのプロセスを踏むことができない。
日常の中で、そうした事例はたくさんあるように思います。ただ、今の忙しい日常の中では、なかなか立ち止まって考える余裕なんてないでしょう。
そんなことなどを考えるきっかけが「雨」でした。

先日、休日だったのですが、どうしても外出しなくてはならない予定がありました。こういう日に限って、嫌がらせのように雨が降る。しかたなく傘をさしてでかけました。
予定を終えて帰宅するときも、雨は変わらずに降り続いていました。左手には荷物、右手には傘という両手が塞がっている状態だったので、降りしきる雨に対する感情は、空気で膨らんでいく風船のように、私の中で大きくなっていきました。

『現代の技術はとても進んでいる。傘をささなくても、雨をしのげる方法はないのか(カッパを着るとかではなく)』
行き場のない愚痴が、頭の中をぐるぐると回っていました。イヤホンで音楽を聴いていましたが、あまり楽しめない。そんな状況でした。
自宅に近づいた頃、行き場のない愚痴とは異なった考えが、ふっと頭の中に浮かびました。
『自分は雨が嫌いなのではなく、傘をさすことで手がふさがる。そのことが嫌なんじゃないか?』
確かに、雨が好きか嫌いかと二択で問われれば、迷いなく嫌いと答えるでしょう。でも、雨がこの世から存在しなくなればいいかと訊かれれば、それは困る。雨が降ることで、メリットになることもたくさんあります。
雨に対する嫌悪感よりも、両手が塞がっている状態をどうにかしたいと考えると、不思議と自分の中にわだかまっていた感情は溶けていきました。

今回は、「雨」に対して抱いていた『嫌い』という感情の正体が、「雨が降ることで、手が塞がることが嫌だった」ということでしたが、日々の生活の中にも、同じようなケースがいくつか潜んでいるのかもしれないと思えました。
毎日の生活に追われて、なかなか自分の感情や考えの深い部分まで目が行き届かないことがあったりしますが、自分の感情なり思考なりをよく観察してみると、実は、自身の中で思いこんでいる感情や考えの正体がまったく違うことに気づかされる。それは些細なことかもしれないが、一つひとつに意識を向けてみると、自分の生活や人生を大きく変えるきっかけにつながっていることもあるかもしれない。そんな気がしたのです。

考えすぎか?
でも、そうした思いこみって、無意識の領域に存在しているでしょうし、無意識の領域は、意識して見ないと認識できない。意識するって、人にもよるかもしれないけど、けっこうエネルギーを使うというか難しいことのように感じる。そもそも生活の一つひとつの動作などを意識していたら、夜にはへとへとで、夕飯を食べる気力もなくなるかもしれない。
でも、人は意識しなくても動作できている。それは、無意識がせっせと働いてくれているからでしょう。
人間の中で、無意識が大きな領域を占めているからこそ、そこに「なぜ」とか「なにが」といった光りを少しでも当てないと、自分の中で思いこみという誤解が生まれてしまう。それが真実になれば、おのずと結果も変わってくるでしょうし、自分の望まない方向へと知らず知らずのうちに向かっているといったこともあるかもしれない。

自分が無意識に考えていることとか、思っていることに少しでも「なぜ」とか「なにが」といった疑問を抱いてみたり、違う角度から見てみたりすることで、もしかしたら悩んでいることとか抱えている問題などの解決策が発見できたりすることもあるかもしれない。一日に一回でも、小休憩をとる感覚で自分の考え、感情を見つめてみる、書き出してみることで自分の中の棚を整理することができるし、それがより良い結果を生むことにつながること可能性も秘めているのではないか。
そう自分に言い聞かせながら、思っていることや考えていることの整理をしてみるのもいいかもしれないと思っています。

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