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だから、映画を好きになった。

私は、心から好きだと言えるものがなかった。
好きな人も、ものも、場所も、なんとなくだった。
だからだろうか。なにかに執着することはなく、一時の熱で燃え上がることは会っても、すぐに冷めてしまった。

私は、ずっと何かを大声で好きだと言える人が羨ましかった。
なにかを大声で好きだということは、ちょっぴり恥ずかしい。そのものに対するエネルギーが必要だからだ。
私は、大声でいう好きなんて、言えなかったし、そもそもなかった。熱をもつほどの「もの」に出会うなんてなかった。

今思えば、出会おうとしていなかったのだと思う。私の狭い世界から出ようともせず、見つけるなんて、そりゃあ、数が限られてるに決まっている。誰かに合わせることが難しい私は、なおさらだった。

だから、今でも憶えている。
あの、一生見続けてしまうだろうと思った衝撃を。

私は、大学一年のとき病んでいた。というか、たぶん病んでいた。病むという状態がどういうものにあたるか分からないけれど、毎日涙がでる苦しいときだった。
親との折り合いが合わず、その影響で学校の人間関係もうまくいかず、すべてが悪い循環を辿っていた。

どうしても抜け出したかった私は、いろんな場に顔をだした。
本当に必死だった。今の自分から抜け出さなくては。こんな自分は、私が自分だと認めない。私は私が嫌いだった。
だから、いろんな場に顔を出して、私の世界にはいなかった人たちの話を聞いて、変わった感覚に陥った。自己満に浸っていたことは間違いないけれど、でも、そこで初めて「考える」ということを知った。学んだ。体感した。
今までの私は、受験勉強で問題を考えるだけだった。日々について考えることなんて、本当になかった。
だけど、「考える」って、そこらじゅうに題材は溢れているし事欠かないものだと知った。そして、それがものすごく楽しいものだということも。考えれば考えるほど、私の知らない世界や面が見えて、私が見ていた世界がいかに小さかったかを、知った。

そんなとき、
岩井俊二監督の「ラストレター」に出会った。
映画が自分の世界を広げてくれるものだなんだと、気づいた。

私は映画を全くと行っていいほど、見ない人だった。映画館に行くのも3年に1度くらい。ほんとうに見なかった。見たい映画すらなかった。
だから、見たのは本当に偶然なのだけれど、見た瞬間、私の世界は広がった。
私は、自分を理解してくれる人というのは、人同士の中のみだと思っていた。人と人とが顔を合わせて話すことでしか、存在し得ない。だけど、違った。それは、映画にも可能である。私は、たしかにそのとき、映画に受け入れられたと思った。

そこから、私は映画が好きになった。いろんな映画を貪った。考え方、社会問題、生きかた。私の知らない世界をたくさん知った。

映画は、たかが映画で、すぐに人から忘れ去られてしまうもの。だけど、ときに人を助ける。どこかの誰かが、助けられている。
あのときの私のように、きっと今日も誰かが救われているかもしれない。
大げさだって言う人もいるだろう。だけど、たしかに存在している力を否定することはできない。

今日も、明日も、これからも私は映画を見る。

#映画にまつわる思い出


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