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(82)「赦し」と「許し」

テーマは「赦し」

私はいかなることも「赦し」ています。
どんなこともです。
どんな「残念な行為」も
私は「赦し」ています。

しかし「赦し」てはいるが、
相手のために
「許してはならないケース」があります。

「許し」が相手の「甘え」を増長させ、
相手をますます「堕落」させてしまうからです。

大概の人は「赦し」と「許し」の違いを理解していません。

私の例で話します。
私の人生テーマがまさしく
「"ゆるし"とは何か?」でした。

(当時)夫と浮気相手女性との旅行が相手のご主人の知るところになり、さらに夫は女性に妊娠までさせてしまいました。

裁判になり夫の母親、弟が上京。一方、私の母は心労で心臓発作で入院。和解金を相手の夫に支払うことで終結しました。

父は当時小1だった娘の為に
「真唯が全てを飲み込め。
父親を失うには小さすぎる。
全てを飲み込んで忘れろ。」
と私に告げました。

彼女の家庭にも娘と同い年の男の子がいました。
(元夫が妊娠させた子どもは彼女が流産したので娘の義兄弟はいません。)

元夫は私の両親の前で手を付きながら、
「彼女は悪くありません!! 
 彼女は悪くありません!!」
と愛人を必死にかばう姿に私は違和感があってたまりませんでした。

それでも私は上記を全て飲み込み夫をゆるしました。
誤ちのない人間などいない。
私も完全な人間ではない。
と自分の心を諭したのです。

ところが、
真唯は何をやっても"ゆるしてくれる人"
となってしまい、あらゆる素行全てがますます悪化していきました。私の「ゆるし」が「私への甘え」と「夫の堕落」に拍車をかけたのです。

繰り返される女性問題。

冬休みのクリスマスも終えた年末、中1の娘に
「人生に苦しみはつきものだと思う。
でも、ママはこのテーマ(夫)からはもう卒業したほうがいい。
同じ苦しむならば、次のステージに上がって次の課題にするべきだと思う。
来年新学期が始まる日、家庭裁判所に行って
必ず離婚の申し立てをしてくるんだよ。」
と娘から背中を押されて離婚することになります。

上記、二つのテーマがあります。
一つは「赦し」と「許し」。
私が「ゆるし」ていたのは、
「赦し」ではなく、「許し」の方だったのです。
「許し」とは、ある許容範囲のルールを超えないことを意味します。

つまり、私はルールなく「許し」てしまったために元夫は私に甘え、堕落していきました。
イエスのおっしゃる「赦し」とは全く異質のものです。

もう一つは、話だけ読んでいると「私はなんて不幸なのか」と世の中全てに恨んでしまいそうですが…
実は「私のゆるし」が、相手を甘えさせ、堕落させてしまった原因だった…とすると
「私の罪」
「私が悪女」
なのだということに気づきました。「悪」は、実は「己の中にいた」ということです。

私の「良かれ」として行った「善」の行為は、
相手のためには「悪」だったのです。

人は愚かです。
どんな残念な行為も、
私は全て「赦し」ています。
どんな最悪なことも
私は全てを「赦し」ます。

しかし、
「赦し」ているけれど
相手のために、
ルールの範囲を超えた場合は
「許し」てはならないときがあります。

私の場合は、「離婚」という形で。
そして全ては「因果応報」「悪因悪化」のお沙汰に委ね、自身はその経験から得た教訓で自分のステージを上げ、糧にし、残念な想いは全部手放す。

人は人を裁けません。
バチカンのシスティーナ礼拝堂に「最後の審判」の絵があります。

イエスが「神」として神格化されて描かれているものですが、
「イエスが人を裁くことはない」
と言っていた父の声が聴こえてきます。



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