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No.26 魚釣りから考える肉食と殺生   その4 中国仏教での肉食の禁止と日本への伝来

 お坊さん仲間に「うちは魚釣りはできない。殺生だから」と言われたことをきっかけに、仏教の戒律や肉食の歴史を考えるシリーズその4、中国仏教での肉食の禁止と日本への伝来として少し整理してみたいと思います。

・中国に伝わった仏教の変化

 肉食について、インドでは一定のルールの下で肉食は容認されていたことを前回整理しました。その後インドでは、大乗仏教という仏教運動が興り、その教えが中国へ伝わります。そこでは、すべてのいのちが仏性(仏になる種)を持っているという理念の下、その仏性を奪うという理由から不殺生が厳格化され、肉食が一切許されなくなります。

 ただ、この仏性を奪うという範囲には植物は含まれませんでした。あくまで有情(うじょう)という語で表される「意思のあるいのち」が対象でした。
 結果として、精進料理が発達することになります。ここで面白いのは、乳製品も禁じられていることです。殺してへんからいいやん、って思いますが、子牛や子羊が飲むべきものをとっているからダメなようです。精進料理ってムズカシイ、、、。

 以上のように、中国ではお坊さんは決してお肉を食べることは許されませんでした。それだけでなく、浄土真宗の七高僧の一人、善導大師が都の長安でお念仏を広めたときは一般の人も肉食を控えたため、お肉屋さんが廃れて店主が怒り狂った、という伝説まであります。

・日本への仏教の伝来と肉食のあり方

 そして仏教が日本に伝来します。その際に、インドでの三種浄肉ならOKというルールと、中国で発展した肉食は一切禁止というルールが同時に入ってきます。そのうえで、日本では原則肉食は禁止されますが、隠れて食べていたり、徐々に認めていったりされることになります。公に肉食をするお坊さんが現れるのは浄土真宗の祖である親鸞聖人(平安末期~鎌倉初期)以降ですが、隠れての肉食は歴史的にはもっと古く、公然の秘密という状況であったようです。

・現代の肉食坊主の一般化

 それでも江戸時代までは肉食は許されませんでした。浄土真宗の僧侶は『特別枠』で例外的に肉食が認められていましたが、他の仏教教団の僧侶が肉食することは幕府から処罰を受ける対象ですらあったそうです。
 そして、江戸幕府が倒れ、維新政府が1872年(明治5年)「僧侶の肉食妻帯勝手たるべし」という太政官布告を出します。これによって、日本全国のお坊さんの肉食や妻帯は各々の判断に任せる、となりました。ざっくり言うと、この時の布告以降、肉食する、妻帯するお坊さんが当たり前のようになります。
 
 以上、仏教がインドから中国、さらに日本に伝わる中で、肉食がどのように受け止められていたのかを整理しました。先ほど江戸時代、浄土真宗は肉食の『特別枠』と書きましたが、この点について書きたいと思います。教えと密接にかかわる大切なところです。よろしくお願いいたします。

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