プロローグ その患者は、生きていなかった。/小説【その患者は、「幸せ」を知らないようだった。】
「はい、ひかりの病院、受付の早川です。」
「…げほ、よ、予約をとりたくて、…」
「初診でしょうか?お名前を教えていただけますか?」
「…美原、咲希」
「ミハラサキさんですね。紹介状はお持ちですか」
「いえ…げほげほ、」
精神科の受付に勤務している早川麻里子はいつにも増して困っていた。
精神科という診療科で働いている以上、言葉の通じない患者や理不尽にキレる患者は幾度となく見てきた。
しかし、今回の患者は明らかに重症そうなのが電話越しにもわかった。
もっとも、声が出ていないのだ。ささやき声しか出ていない。
それに…
ひかりの病院は、県内でも有数の精神科専門の大病院だ。
外来だけでなく入院病床も200床以上あり、スタッフも多い。
それゆえ、初診の患者は紹介状が必須なのだ。
しかし早川は、紹介状が必要であることを伝えるには、あまりに人が良すぎた。
「わかりました。診てくれる先生を探します。来週の月曜日には、こちらからご連絡いたします。」
「…ありがとうございます…」
早川は、電話を切ったあと上司の石田紀子にこの件を話した。
「もうほんと、マリったら断れないんだから…どうせ厄介客なんじゃないの?」
石田はため息をついた。なんでもできる頼れる上司だが、少し厳しいところもある。
「すみません…」早川は何も言えなかった。しかし、厄介な病気の患者を治療する場所が精神科であるとも、心の中では思っていた。
「まあ、そうねえ…紹介状なしでも、谷村先生なら引き受けてくれるんじゃないかしら、マリと一緒でお人好しだし。」
石田がカウンター越しを顎で指した。
スキンヘッドに、白衣をゆらゆらと揺らしながらゆっくりと歩いている谷村先生が見えた。
こんこんと、診察室のドアが力無くノックされた。
「どうぞ。」
ゆっくりとドアが開き、ふらつきながら入ってきたのは、まだ幼さを顔に残した、やせ細った少女だった。
「美原咲希さんですか?」
はい、と頷く声は、声にもなっていない。
谷村は小さく丁寧な字で書かれた美原の問診票を眺めた。
美原咲希、18歳。
倦怠感、不眠、希死念慮、OD。
おかあさんにおこられる、いますぐにでも死にたい、入院させてください。
どうやら声が出ないのは、母親に罵倒されたからであるようだった。
谷村はとりあえず明日、急性期病棟であるA4病棟に入院させるように指示を出した。
ここから、診察や心理カウンセリングによって、美原の壮絶な過去が明らかにされていく。
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