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ホットケーキ


「ホットケーキが食べたいのよ」と彼女が言い出したのは八月の末の土曜日で、時刻は昼の十時半を過ぎた頃だった。
「急にどうしたの」と僕は言った。彼女はベージュのソファに身体を横たえて、天井を眺めたままクッションを抱きしめている。テレビニュースは三日前に自殺した男子高校生の話題が取り上げられていた。 
「きみは昨日の月を見た?」彼女はうっとりするような声音で云った。
「それがどうしたのさ」高い木々の影に見え隠れする異様に大きな月だった。
 彼女はため息を吐いて、
「あの月がホットケーキに見えてしょうがなかったのよ」
「食いしんぼうだね」
「嫌だわ、うるさい虫が飛んでる」と彼女はこちらを見てにこりと笑った。

 僕はホットケーキの素を戸棚から取り出し、家の中にある一番大きなフライパンを取り出した。彼女はボウルを細い指の先でかちかちと鳴らした。ネイルをしない薄桃色の、優しく乾いた音がした。
「絵本に出てくるような、特別に大きくてふかふかのを作りましょう」
 ホットケーキの素は一袋、卵一個、水100ml……。彼女が小さな泡立て器でかき混ぜるたび、ボウルはかしゃかしゃとくすぐったいような音を立てた。
 生地が混ざったところで、僕はフライパンを火にかけた。油をしいて生地を流し込むと、じゅっと音を立てて生地が丸く広がる。そのうちホットケーキの甘い匂いが部屋に広がる。生地にふつふつと穴が空いてくる。
「生焼けしないといいのだけど」と彼女が口を挟んだ。確かに、普通見るホットケーキのサイズより二回りほど大きな径で生地は広がっている。
「きっと大丈夫」と僕は言った。でもきっと生焼けしてるんだと思う。生地があまりにも大きすぎたのだ。
 生地をくるりとひっくり返してみるとちょっと焦げている。横で彼女がムウと声を漏らす。
 結局できたのは煎餅みたいに茶色く平たいものだった。半分に切って、バターを一欠とシロップをかけた。
 僕の横で出来上がったホットケーキを頬張る彼女は、「美味しいからいいのよ」と含み笑いした。
 昼間の月は白く透明で、広い青に姿を溶かすように空に浮かんでいた。

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