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夜雨

 夜半の中途覚醒だった。夜のぬるさに肉体の輪郭が溶け出していた。自然と意識が目覚め、僕の意識は闇の天井を見つめ出した。
 窓の外からはぱたぱたと雨音が聞こえていて、まどろみの浮くような感覚は特別な高揚感をともなう。時間の支配のない、この全く希少な感覚を損なわないように、僕は暗い部屋の中から玄関へ向かった。
 外の雨は柔らかい霧のようにひやりとした。身一つで見やる外の景色は平面的で、部屋のアパートも、向かいの床屋も、一枚の絵の中に切り取られてしまったように平たく見えた。雨つぶだけは暗い街灯に照らされて、果てのない奥行きの中で白や青になったりを繰り返している。
 車の通る音も、家々の窓から溢れる光もない。人の気配はなく、ただ夜の闇ばかりが物質の肌にぺたりと貼り付いていた。
 雨の線は細かく、粒も小さかった。僕は見覚えのない町の中にいて、そのうちひとつの、建物の中へと入った。その白い骨のような建物は凍えてしまうほど静かで、家具も階段もない空間だった。割れたリノリウムから剥き出しになったコンクリートの床が黒く汚れていた。その奇妙な空間ではこの世界から失われてしまった言語や感覚、事物をひとつひとつ手に取ってつぶさに眺めることができた。それらは脆く、浜辺の砂で盛り固めたボールのようにさらさらとした質感をしていた。色のないそのボールたちは僕の記憶になんらかの傷痕をつける前に形を失い、からからと音を立てて消えてしまう。そのボールは永遠に形を再現するとこのできない真円の球だった。僕はその場を離れた。
 ここは幽世で、そこには僕とその肉体のみがあった。身体の輪郭はこの時にはすでに明確にその形を示し、前髪の毛先や指先の爪の白く伸びたところまでがはっきりとした意識で夜との境界を隔てていた。
 この場所には誰もおらず、そして時間の流れがない。今僕は、果てのない、そして永遠の孤独の箱に取り残されている。
 硬い屋根から雨つぶがそれぞれに集まって、伝って滴り、タラッタラッとか、パチッパチッとか鳴るのをよそに、僕は地面に寝そべった。そこは車通りのない狭い一車線の中央で、交差点に立つ信号機の高さが目につく。信号機の赤に照らされて落ちていくあの赤く透き通った雨粒は、僕の熱を吸い取ることなくまた闇の中に落ち込んでしまう。その刹那に灯った紅玉の光が永遠に失われていく様を、僕はただ眺めるばかりだった。
 このまま雨の中に溺れてしまいたかった。それは悲しみを含まない朗らかな心で、しゃんしゃん降りしきる雨粒が僕の肌にぶつかり、僕の身体を濡らしきり、しまいに僕も雨の一部になってどこかに流れていくことを静かに望んだ悦びだった。

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