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映画レビュー 板尾創路監督作『月光ノ仮面』(2012年) と吉本興業の映画製作進出事情について

最近、板尾創路監督・主演作「月光ノ仮面」(2012年公開)をDVDで久しぶりに観て、改めて良作だと思いました。板尾氏に映画監督としての才能を感じる作品です。



古典落語の「粗忽長屋」をモチーフとして、敗戦直後の落語界を箱庭的に作劇するという着想は、稀有なものだと思いました。
よく板尾創路氏のお笑いにおける独特な感性は板尾ワールドなどと呼ばれていますが、この映画を評するのにはそれも失礼な言い方であり、一個の映画監督として評価されて然るべきだと思います。
ダブル主演となる板尾創路氏と浅野忠信氏はキャラクターがよく生きていて、意図した存在感を絶妙に体現しているし、脇を固める演技陣、前田吟、石原さとみ、矢部太郎らの技量も十二分に引き出されています。ストーリー展開のされ方も、非常に独特な題材でありながらそつがなくまとめきっています。

残念だった点は、画面の色調調整をきつくかけすぎていて、それがあまりよい効果に繋がっていないように感じられてしまう事、またドクター・中松と太った遊女のサブエピソードがメインストーリーから完全に独立しており、説明が一切ないためなんでもありに陥ってしまっている事、毎夜満月の町という奇妙な舞台設定である事の説明が足りず、その意味的な効果を半減させている事…です。こういった作りの荒さはあるものの、それらは微調整でなんとかなる程度の事柄です。

また、その前作、板尾氏の監督第1作目となる「板尾創路の脱獄王」(2010)では、展開のリズム感に不得手な所があるように感じましたが、本作ではそういった事もなく、板尾監督において経験則から是正していく力量もうかがえました。この事については監督本人もインタビューで言っていたので、それが自覚的なものである事が頼もしく感じられました。
また、演者・板尾創路氏を最も的確に演出できるのは、板尾創路氏本人であるという事も、監督2作品で立証されたと思いますし、高く評価されるべき点です。個性的な題材をそつなくストーリーテリングに落とし込んでいるため、映画作品として文学的表現力が際立っている作品でした。
また板尾氏の映画制作では増本庄一郎氏という映画作家の方とのコンビで取り組まれているようで、この2人がどのような役割分担や制作経緯を辿っているのか、はっきりした事まではわかりませんが、この方の力量も気になる所です。

最近、観直してみて改めてそのように感じ、板尾氏のその後の監督作はないのかと調べてみた所、「月光ノ仮面」から5年後に「火花」を撮っている事がわかりました。2022年の現時点ではその3作品となります。

「火花」とは、お笑い芸人の又吉直樹氏の原作となる芥川賞受賞作の映画化であり、いわゆる話題作という事になります。その内容からして、同じくお笑い芸人である板尾氏が監督を務めるのは適任だと言えるでしょうが、「月光ノ仮面」から5年、オリジナル作を発表せず、単発的に企画物の話題作を監督するというのも、板尾氏の監督としての潜在的期待値を思うと、扱われ方が低すぎると感じました。そこからさらに現時点に至るまでの5年、板尾氏は監督作を発表していません。
私としては「月光ノ仮面」に続くオリジナルの新作を期待しますし、映画における一般論的な評価眼からしても、期待して当然だと思います。

なぜ「月光ノ仮面」以降10年も、板尾氏は監督としてオリジナル作品を出さずに塩漬けにされているのかという疑問から、ここで、吉本のプロデューサーは何をしているのか?という事が気になってきました。吉本のプロデューサー陣は目が節穴なのか?と思ってしまいます。
吉本興業は2007年に松本人志氏監督作品「大日本人」を皮切りに映画制作に進出し、所属するタレントを複数監督デビューさせ、上映スクリーンに映し出される企業ロゴも作成しており、まがりなりにもの映画制作ブランドであると言えます。

そんなブランドの活動として、「月光ノ仮面」の品質を正しく見定めたなら、即座に板尾監督のオリジナルによる次回作の企画を立ち上げるのが然るべきあり方です。しかしそれがなく10年も塩漬けにされているというのは、板尾氏の意向によるものなのかと考えると、それはないと思います。板尾氏はインタビューを聞く分には自作「月光ノ仮面」に手応えを得ていますし、企画物の打診があればまたメガホンを取ってもいるわけなので、監督業に興味を失っているとは考えにくい。

となると板尾氏の塩漬け状態の理由について残る可能性は、やはり吉本興業映画ブランドを運営するプロデューサー陣の消極性や無理解が原因であるとしか思えません。おそらく「月光ノ仮面」は興行的には振るわなかったんでしょう。またこれといった評価もない。吉本興業のプロデューサー陣はそのような事を判断材料としているのだと思います。

しかしそれだからといって、期待値のある所属監督への投資を止めるというのであれば、そもそも映画ブランドが成功する道筋など他にあるんでしょうか?所属お笑いタレントが監督をするという、異業種監督である事が前提の映画ブランドにおいて、2作品で興行的な結果が出なければ見切ってしまうというのは、プロデュースのあり方として、事業展開の構想そのものが最初から欠如していたのだと思わざるを得ません。

吉本興業映画事業のプロデューサーというのは、十中八九本業はお笑いタレントのマネジメント業者でしょう。そのタレントの才能を発掘しようとする場合には、タレント当人の興行力や批評のされ具合いなどを判断材料にするんでしょうか?タレントの才能を見出すのには、判断材料はマネジメントを担う者の眼力しか頼れるものはないと思います。であれば、映画事業についてはなぜそうしないのか?種を蒔いてみた所まではいいが、それでどんな芽が吹いてきたかは見もせず、水もやらず、売れなければ枯らしてしまう。吉本の映画プロデュースにはそのような一過性のものを感じます。
そこにおいてプロデュースに必要な眼力というものは、必ずしも映画作品の審美眼ではなく、吉本の映画事業であるならお笑いを見定める能力の応用でも成り立つのではないのか?
何よりも、「月光ノ仮面」という作品を見極める折にわきまえおくべき事とは、本作が、とても吉本興業らしい作品であり、かつまた一定の完成度も併せ持っているという点です。つまり、まさにブランド独自の固体が出現したという事が言える作品なのです。他の映画ブランドでは決して作れ得ない作品です。そういった独自商品としての優位性を、その事業者自体が認識する力がないなら、そも映画進出事業などうまく行くわけがありません。

吉本興業が所属タレントを監督に起用する手法で映画事業への進出を勘案したのには、先例となる具体的なテンプレートがあった筈です。それは紛れもなく、奥山和由氏プロデュースによるお笑いタレントビートたけし氏の映画監督誕生劇の事です。私は北野映画のプロデュース展開については、まず売り切る事しか考えていなかった奥山和由氏と、その後を継いだ天性の審美眼を持つ森昌行氏との、新旧2人により成立したと解釈しています。森氏は単なる有能なマネージャーというだけではありません。こういった事を吉本興業のプロデューサー陣は学ぶべきです。

ジブリのアニメ映画ブランドにおいては、次々に興行記録を塗り替える快進撃が続いたために、世間の目は豪腕プロデューサー・鈴木敏夫氏に集まり、当人が衆目に引っ張り出される事になりました。映画ブランドが成功したと言えるバロメーターとは、個々の作品の興行成績や批評のされ具合いではないのです。世間の目がプロデューサーに集まるようになる事が、映画ブランドを成功させたに足るバロメーターだと言えるのです。



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