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商才がなかった子ども時代

エネルギーがみなぎるって言葉があるように、エネルギーが体をかけ巡っているのがわかる一日だった。


朝ごはんをしっかり食べられたからかもしれない。


直感もさえていたのだから不思議だ。というか、三月に入ってから、なぜか直感がバシバシ働き、ことがうまく行くことが多くなっている。


何しても楽しい。そして疲れたとしてもパワフルだ。


いま心地よい安心な世界を自分でつくるのって、本当にとても重要なのかもしれないってことを感じる。


いまここは安心安全な場所。わたしが手にしている多くのモノにフォーカスすれば、それが拡大して循環するはず。


一日中ネガティブになることもあるが、ネガティブさえも豊かさだと思う。


いろんなことを感じる。押し殺していた自分が少しずつ、解放されているのかもしれない。


本来のわたしはどんな子(人)だったのだろう。それを徐々に思い出していく作業。


母に聞くと、ウーマクー(おてんば)で、近所の人たちから変わった子だといわれていたと、母の日記に書かれていたらしい。笑


どんなところが変だったのか聞いてみた。


もしかすると以前noteに書いたかもしれないが、道端に生えている雑草や花を束ねて、家の前の信号で停まる車の人に売ろうとしたり、プラスチックのコップに麦茶を入れて売ろうとしていたらしい。


そういう恥ずかしいことを、平然とやってのけた子どもだった。


いわれてみるとうっすらと遠い記憶にある。すぐ下の妹をしたがえ、「冷たい麦茶ですよ〜。10円です。いかがですか〜」なんていって一緒にやってたなって思い出す。


大黒柱で、仕事をかけ持ちしている母をなんとかして助けたいという一心だった。


おもしろい子どもたちだ、といって案の定買ってくれる人なんていなかった。


残念といわざるを得ないが、どうやらわたしには商才はなかったらしい。笑



だがしかし、雑草の花束が売れないなら麦茶だ!と諦めない根性だけは買ってほしいものだ。


今日も思いつくまま書いてしまった。



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