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舟越保武《牧歌》廃棄に寄せて


 2023年7月18日(火)付の中国新聞朝刊に、衝撃的な記事が掲載された。
 
旧広島駅ビル(広島市南区)の壁面を55年間にわたって飾った、日本を代表する彫刻家舟越保武さん(1912~2002年)の作品「牧歌」が2020年の同ビル建て替え工事に伴い廃棄されていたことが分かった。広島の玄関口で長年愛された作品の消失に、市民からは残念がる声が上がっている[1]。
 

記事によれば、この《牧歌》という作品は、1965年に旧駅ビルを運営していた広島ステーションビルが駅ビルの開業に合わせて舟越に依頼したものであるという。駅ビル南口の壁面に取り付けられた後、専門店街「広島アッセ」の壁面に移設されていた。2020年頃、新駅ビル(25年開業予定)の建設に伴う広島アッセ解体工事の際に廃棄されたという。
 吸収合併前の財産リスト(広島ステーションビルが作成)の中に作品の記載はなかったとのことである。同記事では中国SC開発の田尻寛総務部長の「作品の存在と芸術的価値について認識できず、作品を失う事態を招いた。」という発言[2]を紹介している。つまり、広島ステーションビルは舟越に作品制作を依頼しておきながら、作品の管理を怠っていた(そもそも作品の存在を把握できていなかった)のである。
 この事件を、広島ステーションビル、および現在駅ビルを運営する中国SC開発の怠慢と批判するのはたやすい。しかし、似たような事例は日本国内でも多くあり、今後も繰り返す可能性がある。本稿では公共空間に展示される芸術作品について、いかに消失を防ぐか考えていきたい。
 


東京大学:宇佐美圭司《きずな》廃棄


 今回の記事を見て真っ先に本稿執筆者が思い出した出来事(あるいは多くの方も想起したかもしれない)が、2017年の東京大学中央食堂に設置されていた宇佐美圭司《きずな》(1976)廃棄事件である。
 同作品は、1976年に東大生協創立30周年記念事業の一環として、東京大学の高階修爾文学部教授(当時)から推薦され制作されたものであるという[3]。その後食堂の全面改修にあたり、2017年に《きずな》は廃棄された。
 注目すべきは、《きずな》が広島駅での今回の事例と違い、作品がきちんと認識され、その保存方法が議論されていたにも関わらず廃棄されたという点である。東大生協がどのような判断にいたったかを見てみよう。
 

中央食堂の老朽化に伴い、2018年3月完成をめどに東京大学創立140周年記念事業の一環として、全面改修工事を行うことになりました。そのために設置された中央食堂改修設計連絡会議(構成員は生協・大学施設部等事務方・設計事務所)(※以下「連絡会」と表記)の席上でこの作品の取扱いが検討され、同作品が東大生協の所有物であることが改めて確認されました。連絡会においては、十分な検証を経ることなく、また専門家の意見を聞くこともなく、技術的には絵が固定されていてそのまま取り外せないものであり、周りから切り取っても出入り口を通れる大きさではないという誤った認識が共有され、そのまま残して設計を変更するか、設計を優先させて廃棄するかという二者択一の中で判断しなければならないという流れになりました。その結果、設計と作品保護を両立させる可能性を模索することを怠ったまま、所有権者である生協が軽率な廃棄の判断を下してしまった次第です。同作品の廃棄処分は2017年9月14日に行われました[4]。
 
 東京大学生協は、この事件の反省点として、以下の9点を挙げている。
 
1)中央食堂の改修工事を監修していただいた先生の「作品を残す方向で検討し、意匠上・機能上も問題のない新たな設置場所を確認した」というご意向が、検討の過程で情報として共有されなかったこと
2)作品を分割して移設・保管するなど、実際には可能であった搬出や保護の方法について検討を怠ったこと
3)宇佐美氏の業績・経歴について多くの連絡会関係者に周知されたにもかかわらず、公共的な空間に設置された作品の芸術的価値や文化的意義について十分な認識を共有しなかったこと
4)作品の所有権が生協にあることで、その取扱いがもっぱら生協の判断に委ねられたこと
5)生協が寄贈を受けた作品の取扱いについて生協の顧問弁護士に検討を依頼した際に、処分を前提とした法的観点からのみの相談になり、公共的な空間に設置された作品の芸術的価値や文化的意義、あるいは著作権者との関係という観点からの検討を依頼しなかったこと
6)東京大学内に、本件の取扱いについて作品保護を前提とした有効な助言を得られる多くの専門家や有識者がいるにもかかわらず、いっさい相談しなかったこと
7)生協理事会でも本件を廃棄処分後の事後報告扱いとし、理事長をはじめとする学生・教職員理事の審議を事前に行う機会を持たなかったこと
8)展示にあたって作品に表題が記されておらず、作品解説も付されていなかったなど、生協が作品への敬意を十分に払っていなかったこと
9)作品が多くの方から愛されている唯一無二の存在であることに、思いが至らなかったこと[5]
 
 
本稿執筆者が特に注目した点は、(3)と(5)、そして(8)と(9)である。
(3)と(5)をまとめると、東大生協が作品の存在を認識していたものの、「公共的な空間に設置された作品の芸術的価値や文化的意義について十分な認識を共有し」ていなかったため、「処分を前提とした法的観点からのみの相談になり、公共的な空間に設置された作品の芸術的価値や文化的意義、あるいは著作権者との関係という観点からの検討を依頼しなかった」ということである。本稿執筆者が考えるに、生協にとっては、《きずな》はさっさと廃棄してしまいたい「ゴミ」に近いものだったに違いない。だからこそ、法的には処分することは問題ない、ということを確認して安心してしまったのだ。また、(8)と(9)から読み取るに、そもそも作品の価値について生協は把握しておらず、それを日頃から確かめようともしなかったのである。
 

公共空間に設置された芸術作品を守るために、あるいはこれ以上廃棄される作品を生み出さないために


 芸術に関心のある人であれば、東京大学や広島駅のような事例が出てくるたびに、「なぜ芸術作品の価値に理解が及ばないのか?」と怒りにかられることだろう。本稿執筆者も当初は同じ感想を抱いた。だが、すべての人が芸術に対して理解があるわけではないし、理解しろ、というのも無理だと感じる。芸術作品、特に公共の場に展示、設置された芸術作品が失われないようにするには、「設置された後どのようなデメリットが生じるか」「どのように管理するか」を機械的に定めたマニュアルや手引きが必要ではないだろうか。
 美術館など、作品の収集、保存、展示に特化した場所であれば内部の専門家によって作品は保護される可能性は高い。(絶対ではない)しかし、建築物に設置されたり、野外に設置されたりした作品は経年劣化に必然的にさらされる。建築物は、建てられて未来永劫その姿を変えずにいる、ということはほとんどありえない。必ずメンテナンスや機能拡張などにより改装されたり、取り壊されたりする。なるべく制作時の姿を保ったまま保管されるべき芸術作品とはそもそも相性が悪いのである。となると、そこに設置される芸術作品も、設置される環境の変化に応じた管理の仕方が考えられるべきである。
 例えば広島駅ビルの場合、作家に依頼する際、「将来的な駅ビルの改装を想定し、移設がしやすい作品とすること」と指定しておく。そして組織内部でも作品の移動が必要になったときにそなえてマニュアルを作成しておくのである。もし作品制作依頼の段階で、将来的な作品の保存について自信を持てないのであれば、そもそも作品設置自体をやめてしまうべきだ。
 中国新聞の記事では比治山大短期大学部の高木茂登名誉教授(彫刻・美術史)が「民間企業が所有する作品の取り扱いについて『まずは美術館や専門家に相談をするべきだ』と話している」[6]と紹介しているが、作品の保存に困ってから慌てて専門家に相談しても遅い。美術館は独自の方針で収集をしており、たいてい作品収蔵庫に余裕がないのが実態だろう。何もせず廃棄されるよりはましかもしれないが、困ったら美術館が何とかしてくれる、と安易に考えられては困る。公共空間に作品を設置する際には、「将来にわたってずっと作品に責任を負えるか」を自問してほしい。答えがNOであるなら、作品設置はやめてほしい。
 
 

参考資料


木原由維「舟越保武作品を廃棄」『中国新聞』2023年7月18日、20頁。
東京大学消費生活協同組合. “東京大学中央食堂の絵画廃棄処分についてのお詫びと経緯のご報告.” 2018年5月8日. https://www.utcoop.or.jp/wp-content/themes/todaiseikyo/files/20180508_02.pdf [アクセス日: 2022年8月27日].
 



[1] 木原由維「舟越保武作品を廃棄」『中国新聞』2023年7月18日、20頁。
[2] Ibid.
[3] 東京大学消費生活協同組合. “東京大学中央食堂の絵画廃棄処分についてのお詫びと経緯のご報告.” 2018年5月8日. https://www.utcoop.or.jp/wp-content/themes/todaiseikyo/files/20180508_02.pdf [アクセス日: 2022年8月27日].
 
[4] Ibid.
[5] Ibid.
[6] 木原由維「舟越保武作品を廃棄」