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インチキ医療はこうして生まれる

こんなシチュエーションを想像してみてください。


とある日曜日の朝、目が覚めたあなたは、何となく体のだるさを感じます。鼻水が出て、心なしか熱っぽい。
先週は残業続きだったので、その疲れが出たのかも。
とりあえず今日はお休みなので、一日おとなしく寝て休養を取ることにしました。

翌日。復活していることを期待して起きると、具合がさらに悪くなっています。熱を測ると38度超。激しい頭痛と吐き気があり、食欲ゼロ。
会社に欠勤の連絡を入れ、再びベッドに潜り込みます。
横になるうち途切れ途切れの悪夢を見、目覚めたときは汗びっしょりで、パジャマが絞れるくらい。
それでも、朝よりは少し動けるようになったので、慌てて這うように近所の医院に出かけ、飲み薬を処方してもらいました。

さっそく薬を飲んでぐっすり眠り、翌朝を迎えます。すると、昨日までのつらさがウソのように消えているではありませんか!
すっかり熱も下がり、おなかもグーグー鳴っています。
かくして、朝食をしっかり摂ったあなたは、火曜日の朝は元気に出勤することができました。

さて、あなたが見事に回復できたのは、医師に処方してもらった薬のおかげでしょうか?

間違いなく、そう考えるはず。
「あの薬が効いたのだ」と。
そして、家族や友人・知人に「あの薬はよく効くよ!」と、強くお薦めさえするでしょう。

これが、ごく普通の人間の心理です。

でも、ちょっと待って。
果たして本当にそうなのでしょうか。

発熱や嘔吐といった「症状」は、まさに病原体と免疫が戦っているあかし。勝敗を決する戦いの最大の山場で、最も「症状」が強く発現します。
つまり、「一番具合が悪いとき」が「一番免疫が働いているとき」なのです。

この「天王山」を越えた先にある結果は2つ。「勝つか負けるか」です。

病原体に免疫が勝てば、体は無事に回復します。

反対に負ければ、命を失います。

このとき、与えられた薬に本当に効果があるかどうかは関係ありません(そもそも「一番具合が悪いとき」では時機が遅すぎる)。

免疫がきちんと働いてくれさえすれば、別に薬がなくても、あなたはちゃんと回復できるのです。
上記の例でいえば、近所の医院に出かけられるようになった時点で、あなたの免疫は戦いに「勝利」しつつあったわけです。

でも、あなたの頭の中には、すでに「薬が効いた」というバイアスが生じているので、「人体には自然治癒力が備わっていて、たいていの病気は薬がなくても治る」という事実が見えません。
だから、あたかも「魔法の秘薬」のように、周囲の人にその薬を推薦しまくるようになります。

同じような経験をした人が複数いれば、やはりその薬を推しまくるので、「よく効く薬」という評判がどんどん膨らんでいきます。
本当は「薬の効能」ではなく、単に「免疫が働いた」だけにもかかわらず。

さて、その薬に効果がなかった場合、あなたとは反対に、服用しても死んでしまう人々も存在します。
免疫が病原体に負けた人々です。
その人たちは、声を大にして「こんな薬、ちっとも効かん!」と言い回りたいところですが、残念ながら死んでいるので、誰にも伝えることができません。

「免疫のおかげ」で生き延びた人は、効かない薬でも「この薬はよく効く」という「誤解」を述べることができますが、助からなかった人たちの「こんな薬は効かない」という声は、決して表に出てこないということです。

このカラクリのせいで、実際はまったく役に立たない薬であっても、「良薬」だという口コミが世間に広がってしまうことがあるのです。

こうした「誤解」を避けるために、薬剤の開発には「真に薬効があるのかどうか」を確かめる「比較試験」や、思わぬ副作用が生じないかを調べる「長期安全試験」が求められます。
それも、極めて厳密な手順を踏まない限り、必ずどこかで開発者や被験者の「バイアス」が生じてしまいます。

実は、この「バイアス」のおかげで、生物は生き延び、進化してこられたのですが、それはまた別の話。とにかく、「バイアス」は生命存続に不可欠な要素であり、すべてのことに「バイアス」が生じるのは避けられないと考えていただいて構いません。


ところが、WHOをはじめ世界各国の保健機関は、今後は重要な「比較試験」「長期試験」をすっ飛ばしても構わないという姿勢にシフトチェンジしつつあります。

それで得するのは、製薬メーカー(と、そこから資金を得ている研究者、医師、役人、政治家)であり、損をするのは「薬か毒かわからない」ものを投与される我々一般市民です。

ここでも平然と「科学に対する冒瀆」、もっときつい言葉で言うなら、「科学に対するレイプ」がまかり通っているということに警笛を鳴らしておきます。






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