見出し画像

愛と平和について考える

LGBTの方々の動画を拝見する事が増えた。
多くの方が発信してくださる事で、理解が深まっている。

2000年頃、『男らしい』『女らしい』という言葉に
引っかかっているという事をとある場面で
訴えた事があるが、さっぱりその声が届いていない
様子を見て、『これは、意味のない訴えか』と
なぜか自分が恥ずかしい思いをした事を思い出す。

性について自分の考えを持つ事が変ではないという風に
今なっているのは、何だか信じられない光景のように思う。

私の話は、男女の差別を無くそうという風にも捉えられるが、そうではなくて
性について一人一人がフラットな状態で
考えられるのはいい事だと思っているという事なのである。
自分のセクシャリティを越えて、人々の
性のあり方についても考える事ができるからだ。

男だからこうだとか、女だからこうだとかではなくて
一人の人間として、何を選択していくかを
自分で決めていける世の中というのは、なんとも素晴らしい
事だと思っているのである。

今は、性を決めるという事がクローズアップされているが、
もっと個人にクローズアップするような世の中になると
いいなと思う。

男である事、女である事、まだ決めかねている事。
そういう事を個人のアイデンティティとして持っているが、
一人の人間として、誰を愛し、どんな愛する家族が居り、
どういう風に社会に貢献したり、自分の課題に取り組んだりしているか。
彼の方が上でも下でもなく、一人一人違う人生を
歩んでおり、彼を大切に思う人が居り、それは
誰にも代れない事情があるという事を大切にしたい。

そんな事を考えてしまうのである。

どうかこの話が、恥ずかしい話ではない事を願いたい。
それか、わたしの訴え方が下手であると評価されるか。
それはそれで残念な事ではあるなぁ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?