与えられている感覚②

こんにちは、前回の文章をお読みになられた方、本当にありがとうございます、拙い文章ですが色々悩んでいる人の解法になると嬉しいです
今回は僕の現状と、軽く幼少期からのお話をしましょう。


攻めの無職

絶賛無職です。
多分、前職の親元農業で燃え尽きになってしまったんでしょう

無職になり、6ヶ月目にもなりました
無職というのは怖いものですね、未来も見えず、
自分がなんのために世の中に存在しているのかもわからない
なかなか不安になる感じがします

無職と言っても、前職で培った農業経営のノウハウがあるので、
それで小遣い稼ぎさせていただいているところです
ぜひ農家さんがいましたら農業経営のお悩み相談のお仕事ください、、、
皆さんの不安や不満をなくすことができるように尽力します

ちなみに、親元での農業で、4年間お手伝いをさせていただき、
私が来たことにより概算で売上100%増/収益300%増という成績になりました
私の父の年収も2,000万円弱まで伸ばすことに成功しました
私が来る前は年収500~600万ほどだったのでうはうはだったことでしょう

それでも私の父はお金が貯まらないと常に話しており、私の給料を減らそうとしたこともあり心が疲れてしまって辞めてしまいました

これ以上何を欲しがるんだと本当に悔しいというか虚しいというか、やるせない気持ちですね、今も

ちなみに農業4年目の私は年間の基本給は240万円で1月の労働時間は400時間を超えていました
それにプラスして相場の1.6~1.8倍で父親の農作物を仕入れて販売して
そこから出た分の売上をもらっていました。最終年収は500万程度です
めっちゃもらっているように見えて、時給にすると1,000円でしたね
あと初年度年収は84万円でした(笑)
く、くるしい、、、と思いながら生きていました(笑)

色々衝撃的だと思います、齢25歳で、お金だけのことを考えれば超安泰・この先困ることはほぼ無い・続けていれば社長に十中八九なることができる

そんな生活を捨てて無職になるとはどういうことなのでしょうか
甘い人間だとおっしゃられる方もいると思います、そんな厳しいお言葉嬉しい限りです
ここから少しづつ幼少期を振り返って行きましょう

生まれ

めちゃめちゃ田舎の姉がいる長男でした

幼稚園はただただ普通の子供だったような気がします
特徴があるとすれば、自分が持っているものを分け与えることが大好きでした、お菓子とか自分ひとりで食べることは絶対なかった気がします

あとは泣き虫でしたね、幼馴染からなにかされてすぐに泣くような子供でした、父からその度に『男なら泣いてんじゃねぇ!』と怒られていましたね(笑)

小学校

小学校でもちょっとやんちゃな子供くらいでしたかね
落ち着きはないし、先生の言うことは聞かない、成績表もあまりいいものではなかったです、ちょっと不登校気味にもなりました
父親には『学校に連絡しなきゃいけない俺の気持ちを考えろ!!!』と怒鳴られ、しぶしぶ学校に行きました

成績表には『自分の世界があるみたいですね』と書いてあって
母に『良いことなの?』と聞いて
母が少し困った顔をしていた記憶があります

好きなことと習い事

好きなことと言えば卓球と算数と図鑑でした

卓球は父が高校の時卓球をしていたのでそれで教えてもらっていました
学校でも1番強かったのではないでしょうか。
中学校には卓球部がなかったので、小学校で終わりましたが
父に中学校に卓球部がないからクラブチームに入りたいみたいなこと言ったらなぜか一蹴されました(笑)


算数は幼稚園の頃から数字というものがすごく不思議に思えて
ネットで数式を調べて眺めていました、理解は勿論できません(笑)

あとは図鑑が好きというより、図鑑に載っていることを試してみるのが好きだったんですね
少し気になった実験があればすぐやっていました、今思い返せば母は僕のそんな姿を見てくれていたのだと思います

習い事は野球スポ小と公文をしていました

野球スポ小は2年生から5年生までの3年間やっていました
まっっっっったくうまくなりませんでした
5年生のとき親に『3年やってもうまくならないし楽しくないからやめたい』と言ったら全く話を聞いてもらえなかったので、
自分で監督にやめますと言って勝手に辞めました。今考えるとなかなか行動力のあるというか、征服したい親からしたらムカつく対象でしょうね。(笑)

公文はこれもなかなか一筋縄では行きませんでした
姉が通って『楽しい!』と言っていたので僕もやってみようと思ってやってみたのですが、先生の女尊男卑が激しいのなんの、、、

私は算数が好きで公文では算数をやっていたのですが、
5年生で半年間2桁の筆算しかさせてもらえなかったです、
挙句の果てに先生から『辞めたいなら辞めれば良い』と言われて泣きながら勝手に辞めた記憶があります(笑)

だめな子認定

そんな父と母は私のことを『何をやっても続かない忍耐力のない子認定』
していたようです
僕からしたら忍耐力ってよくわからないって感じでした
うまくならない、楽しくない野球を3年も続けたし、
2桁の筆算しかさせてもらえない公文を半年間続けたし

なによりもなんでこんなに会話をしてくれないのだろうと不思議でした

6年生でのもやもや

6年生の途中までは普通の生活だったように思えます
父からは相変わらずぶつ・平手打ち・言葉責め等々されていましたが、、、

そんな中で6年生のときにターニングポイントが来たと思ってます
担任の先生が、僕にどこぞの私立大学の数学の問題を解かせようとしたのです
もちろんそんな良い大学の問題ではありません。
小学生の持ち合わせる知識の中で解ける問題です。勿論頭の使い方はとんでもない使い方をしないといけませんでしたが、、、
ただ、どれだけ時間がかかろうとも全部解ききりました

今思えば先生は僕のことを視てくれていたのだと思います
こんなに言うこと聞かない自分勝手な人間なのに本当に頭が上がらないです

もう一つ僕の中で事件がありました

幼馴染が密かに中学受験をして、合格していたのです
友達だと思っていた幼馴染に置いてきぼりを食らった感じがして、
よくわからないもやもやがめちゃめちゃ起こりました

そのもやもやを機に、今度は大きい規模の塾に行きました
後々その塾の模試で全国200位にまでなりましたね
私の数少ない自慢できることの一つです、
塾に通わせてくれた母に感謝しか無いです

まとめ

と今回はかなり長くなってしまいましたね
これらの投稿ではあまり自虐にならないように努めて記事を書いています
それにより、読む方から本当に周りが見えていない甘い子供だと言われる可能性があると思うのですが、ご承知おきください。

それでは、また後日書きます




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