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感情労働を考察する

感情労働という事を考え、少しまとめる
のに時間がかかりました。


マルクスという名前の知れた学者がいます。
彼が資本論という大著で明らかにしようと
したのは、そもそも商品と貨幣は
なぜ存在するか?
そんな根本から考えていて、
そこに含まれる含蓄にはほとほと関心します。

なるほど今流行りのピケティに
言わせると、マルクスの理論には
データの裏付けがないと
言うことになりますが、
マルクスが目指したのは、
本当にあるこの世界の分析なのではなく、
こう私たちは世界を捉えている、
という事の分析だったのだと思います。


つまり、当たり前に思っていることを
それ自体疑うのは難しい。

で、感情労働です。

これは社会学の概念で
もともとあって、マクドナルドなどの
感情労働を批評的に表した言葉ですが。


ただ、ここ日本においては、
感情労働
という言葉、概念が当たり前過ぎて、
逆になんと言えば良いか。
マックジョブを他に何の言い方をすれば?


例えば、私的領域のシャドーワークは
一部の人しか指摘しません。


つまり、働くという事は、
感情を押し殺し、
表向きだけ取り繕えと
教えてきました。


それは効率の観点からでした。


しかし、物事は、表面的に現れることが、
本当に成っていきます。

いつからか、お客さんを一番適当に
あしらうようになります。


効率性もさることながら、
いつの間にかそれが本当になる。

現代社会では専門性のある職業など、
限られていますから、
代価可能な店員や職員は、


その仕事自体を、自分の
生活とは違うものとみなします。


例えば、あなたが、
流通業者で、
とっくに毒性が明らかになった商品を
卸しているとします。

それで、それを食べた人が死亡したとします。

それについて、私たちは反省はおろか
責任も感じないでしょう。

意図的に情報にフィルターをかけ
俺には関係ないと
平穏な暮らしをするでしょう。


見かけにこだわった仕事のシステム。
そして、職能全般の公私の感情の区別の結果です。

ある一方では、
優しく信頼出来る身内が、
平然と数千人殺す事が無自覚に出来ている。

ここには情報をフィルタリング出来る事で、
効率と関わりのない情報を
遮断出来るというのがあります。


感情労働の問題点は、
実はここに帰結すると思います。


当初手段として始まった演技性が
かえってそれが本当と
錯覚するようになった。

なので組織的な犯罪は
今くらい簡単に出来る時代もないでしょう。


それは集団の中で個人は責任を認めない、
それが権利だと私たち自身も思っているし、
個別性の責任は、組織的犯罪の
スケープゴートにしかなりません
(集団犯罪を1人で既遂は不可能です)

だから今こそ、
感情を取り戻す必要がある。

それも社会的な自己という奴です。


次回は、アイディンティティの罠で
いきたいと思います。

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