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母の日。30年ぶりの母との再会。

思えば母の日に何かをした事はなかった。

 何故なら高校生の時に両親は離婚して、母とはこの30年疎遠になっていたから。連絡先も分からず、どこに住んでるかも、生きてるのか死んでるのかすら分からなかった。noteをはじめるきっかけになったのは弟からの連絡で母の所在が分かったからでもあるが、それから3か月、忙しさもありいつ会いに行こうかなかなか勇気が出なくて、タイミングを逃していた。それがこの5月に入ってから、いろいろな事が動き出した(父の万引きも含め)感があり、ぽっと空いた母の日である5月14日、ついに意を決して会いに行って来た。

 ここ最近どういうわけか、仕事のストレスなどもあり心がざわついていた。数日前には父の万引事件!(※前の記事参照)もあり余計にそんな状態だったのだけれど、あえてこのタイミングにクリアにしとかなければいけないような気がした。その先になにか新しい扉が開くような気がしたからだ。

 今日は朝から子どもたちがテレビの取り合いで喧嘩になり、何かの拍子にテレビの液晶がクラッシュして壊れてしまった。それで暇な次男を誘ってみたらご機嫌で付いて来てくれた。ひとりで行くよりも心強かったし、何より孫の顔を見せたかったのもある。子どもにも母が生きているうちに会わせておきたかった。

 母は今、実家である大阪の都島というところにひとり暮らししている。僕と弟が小さい時に良く行ったのを憶えている。とは言え家の場所はよく憶えていなかったから、弟に教えてもらった住所を手がかりに都島駅からの道を歩いた。しかし弟の方が憶えていたのにはびっくりした。そのおかげでこうやって会う事が出来たのだ。

 先にも書いたが、この3か月会うか会うまいか考えていた。このまま会わないほうが良いかもとも思った。この30年の間、苦労したであろう年老いた母を見たくない気持ちもあった。しかし生きてる間に会っておかないと後悔すると思った。たとえ親子でも人生は一期一会なのだ。いつ突然会えなくなるか分からない。

 今日は朝から雨で、昼からは少しましになったけれど、どんよりとした日曜日だった。昼過ぎに次男と家を出て電車で向かった。電車を乗り継ぎ15:30に都島に着いて、途中お花屋さんで母の日のプレゼントに花を買った。思えば母の日になにかをプレゼントなどした事がなかった。なにしろ30年ぶりに会うのだから、満を持しての母の日なのだ。お花屋さんもまさかそんな事だろうとは思わなかっただろう。あえて言わなかったけれど、言ってあげたらお花屋さん冥利に尽きたのかもしれない。

近所にあったお店。なんの因果かフライパン。



 そして地図を見ながら数分、近づくにつれ見覚えのある家が近づいて来た。遠目にバギーを持った老婆が家から出かけようとしていたのが見えた。それが母だった。なんだかドラマのようだったけれど、後ろから声をかけた。

『お母さん』


 随分年老いてしまった母は戸惑ったような顔をしてこちらを振り向いた。僕はおもむろに花を手渡した。

『来たよ』


僕だと分かった母はそっとこう言った。

『来てくれたの。本当にありがとう…』



 どうやら近所の猫に餌をあげに行くところだったらしくドギマギしていたが、先に言ってくれてたら片付けたのにと慌てながら僕たちを家に招いた。
 玄関をくぐるとすぐ洗濯物が干してあり、使われていないであろう二層式洗濯機、そして地面に置かれた洗面器に洗いかけの洗濯物が入っていた。洗濯機はとうの昔に壊れて使っていないらしかった。そして横のシャッターの閉まった真っ暗な車庫を通り、小さなドアを開くとそこが家の入り口になっている。

 家は僕が記憶していたまま時間が止まっていた。30年分の物やいろいろな思いがそこに堆積していた。弟からは聞いていたが、なかなかに物で溢れかえっていた。既視感があるのは前に住んでいた我が家の感じだ。前に住んでいた家も間取りと生活動線の悪い家なのと、元来の掃除嫌いが相まってなかなかにとっ散らかっていた。しかしここはそれにも増して狭い家に物がひしめき合っていた。子どもの頃の記憶のままだったけれど、大人になったからか、よりひとまわり小さく狭く感じた。


老婆とゴミ屋敷



 不思議なもので懐かしい匂いがした。記憶の中にある匂い。なんだか昨日の事のように思えるほど昔のまんまの家の匂いがした。そして仏壇には随分前に亡くなった祖父と、ついに会えないままあの世に逝ってしまった祖母がいた。祖母は丁度5年前に91才で亡くなったらしかった。晩年はパーキンソン病で歩くのも困難になり、車椅子生活だったという事だった。母はそこでも苦労したのだと思う。74才とは思えないくらい老けていた。腰も曲がり、声も随分と年老いて、僕の知っている、記憶している母ではなくてまるで他人と話しているようだったけれど、確かに母そのものだった。

 母は会うなりずっと『ごめんね』と言っていた。僕たち子どもを置いて行った事の後悔がその言葉に込められていた。何度も何度も言っていた。僕がその事を恨んでいると思っていたらしかったが、そんな事はないと伝えると、安心していた。実際に恨んだ事などない。ただ今どうしてるか、時折思い出してはそう思っていた。いつか会える日が来るだろうか。それは奇跡に近かったけれど、人生は捨てたものじゃない。生きてたらその《いつか》が訪れる時が来るのだ。変な言い方かもしれないが、こう言う親子の関係も悲しいけれど愛が深まる良い経験かもな、と思った。できるならみなさんにはおすすめしないけれど。

 僕は自分でも不思議だけれど、こんな時でもいつもいたって普通で、やはり涙は出なかった。いつも自分は冷たい人間なのかと不安になるのだが、物事を俯瞰して見てしまうところがあって、ついクールになってしまう。だから感動の再会でお互い泣きながら抱きしめ合う、というありきたりの再会劇では無かった。次男を連れて行ったのもあって、なんだか和やかな再会だった。まるで何ヶ月ぶりに会ったような感じだった。

 狭い家の中にはたくさんのケージが置かれていて、猫が4匹もケージ飼いされていた。多い時は13匹もいたらしいが、良く聞くゴミ屋敷の老婆と頭の中で一致した。他にも29才にもなる亀も飼っていて、以前には捨てられていたうさぎも飼っていたらしかった。うさぎの名前が《ぴょん子ちゃん》という安易な名前で笑ってしまった。そのうさぎは3年ほどで死んだと言っていた。

4匹いる猫はみんなおとなしかった

 そう言えば母は昔から動物が好きだった。オカメインコや犬も飼っていた。しかしオカメインコは輪ゴムで首を吊って死んで、元野良犬で可愛がっていた犬も子どもを産んでからその仔犬の鎖が首に絡まり死んでしまった。思えばその頃から我が家は呪われていたのかもしれない。

 それが今やひとり暮らしになり余計寂しいのか、よりその動物愛に拍車がかかったのかもしれない。おまけに随分前に愛車の軽四を手放した時にも寂しくなり買ったというミニカーがすぐそこに転がっていた。生き物を越えて、もはや無機物にさえ愛情を抱くのには驚いた。ムツゴロウさんも顔負けだ。

 今回僕の生まれた時間が知りたかったのもあり、聞いてみたら見事に憶えていた。生まれた時の重さも。母親の愛を感じた瞬間だった。やはりその点、母という存在には父は到底敵わないのだなと思った。実際に身籠って自らが生む、というのは計り知れない愛がそこにあるのだ。

 仏壇の前の半畳もないスペースに小さく僕と次男が座って話をした。母は朝にコンビニで買ったというパンやお菓子を一生懸命出して来たり、コーヒーを淹れたり、昔の写真を出して来たり、腰が曲がって歩き辛そうにしている割には慌ただしく動いていた。その間、離れ離れになってからの経緯をいろいろと聞いた。その後再婚した人と3年で別れた事、27年前に大阪に戻って来た事など。職も転々としたみたいだった。30年分のストーリーがほんの1時間ぐらいに凝縮された。しかし苦労が顔や年齢に現れているのに対し、本人は割とのほほんと生きているらしかった。僕に似たのか(というより僕が似たのか)、その点は割とマイペースなのだ。身体も元気そうなのには安心した。まだまだ長生きしそうな気がした。

 予想では次男がすぐ帰ろう、と言うのかと思いきや猫もいてたのもあり意外と機嫌良くしていたので助かった。もうひとり新しいおばあちゃんが出来て嬉しかったのかもしれない。しかしあまり遅くなっても子どもも連れて来ているから連絡先を伝え、帰ることにした。2時間ほどいただろうか。時間は18時前になっていた。大抵のおばあがするように、お菓子などしつこく持たせようとしたが、荷物になるので断った。

 次はいつ会えるか分からない。もしかしたら会えないかもしれない。恥ずかしがっていたが、帰る前に玄関先で写真を撮った。さよならを言い、お別れをした。ずっとずっと見えなくなるまで見送っていた。

また会えるかな



帰りがけに駅の近くのラーメン屋さんでラーメンを食べてから帰った。大阪楽しかったー!と次男が言った。

オーソドックスな中華そば。なかなかに美味いラーメン屋だった


『また行っちゃう〜?』
『いいね〜』

そんな風にして帰路についた。


 飛鳥駅に着いたら、たまたま昨日一緒にパーティーした近所の友だちたちが一緒の電車に乗っていた。血は繋がってなくても、なんだかここにも家族がいるなぁと思った。


一生の思い出に残る良い母の日だった。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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