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報道番組に携わってみて思うこと

 私は地方の小さな番組制作会社で働いている。夢だったテレビの仕事。毎日のように走り回って、芸能人とロケをして、遅くまで編集作業やテロップ発注に追われて…そんな忙しい日々を想像していた。
 しかし今、そんな期待していた日々とは程遠い退屈な生活を送っている。

 まず、希望していた配属先ではなかった。バラエティ番組の制作がしたかったのに、報道番組。しかも制作業務ではなく、フロアAD。フロアADとは、生放送のスタジオでちょこまかやってるスタッフのことだ。
 原稿を配ったり、カメラ位置を伝えたり、コーナーの残り尺(時間)をカンペで出したり...。とても大切な仕事だということはわかっている。
 
 生放送は収録番組とは違い、一発勝負。決められた枠の中でできるだけ多くの情報を伝えたいので、アナウンサーが一噛みしただけでも一本コーナーを削らなければならなくなったりする。そんな中で、出演者をサポートする人間がいなければ番組は成り立たない。
 しかし、作られた番組内に私の自我なんて一つも入っていない。私はただ、誰かが作った原稿を渡して、残り尺を伝えて、カメラの位置を教えるだけ。自分のアイデアが一つもないというだけで、疎外感がハンパない。私だって外に取材に出て走り回って、撮影して、編集して、原稿を書いて、作品を産み出す側の人間になりたい。そう思ってこの業界に足を踏み入れたはずなのに。
 フロアの仕事が嫌というわけじゃない。大切なこともわかっている。ただ、やりたかったこととのギャップが凄まじくて、毎日苦しい。
 放送前、全くやることがないわけではない。カンペを書いたり、スタジオの準備をしたり、VTRチェックに立ち会ったり、やることはある。
 しかし、企画が立ち上がっていなければ、原稿がなければ、VTRが完成しなければ、私にすることはない。記者やディレクターが忙しそうにしている中、私はテレビ局でボサッとVTRの完成を待つだけ。何をしているんだろうという気持ちになる。
 必死に雑務を探してやっている時間が、虚しいことこの上ない。

 勿論、この仕事を始めて嫌なことばかりではない。まず、ニュースを面白いと思えるようになった。正直ニュースには興味がなかったけれど、しっかり見てみると発見がある。
 案外自分の近くで物騒な事件が起きていること。思いもよらないことで困っている人がいること。某市長と知事は仲が悪いということ。いまの職に就かなければ知らないことがたくさんある。
 特に知ってよかったと思うことは、「実名報道」の意義だ。事故や殺人等のニュースにおいて、亡くなった被害者が実名顔出しで報道されることは多い。自分の意思を伝えることのできない人間を実名報道するなんて、死者への冒涜ではないのかと憤りを感じていた。
 だが、そうではなかった。亡くなった被害者を実名で報道することで、その事件、事故を忘れない事に繋がるのだ。記録にも記憶にも残るから、犯罪抑止力にも繋がるし、故人を弔う人も増える。
 ある被害者遺族が「亡くなった娘のことを、皆さんに覚えていて欲しい。もうこんな事件が起きないように。」と涙ながらに話していた映像が印象的だった。
 もう一つは、マスコミはマスゴミばかりではないということだ。勿論、「人の不幸は蜜の味」だなんてことを平気で言ってのける人間もいる。
 その反面で、自分の興味に率直で、それを本気で視聴者に届けたいと働きまわっている熱い人間もいる。
 忖度だらけの世界なのかと思ったら、そうでもない。その忖度に物申す人間もいた。「報道する事」に本気なのだと思った。
 前述したように、報道する事は犯罪抑止にも繋がる。手口まで大々的に報道してしまうことは模倣に繋がってしまうのではないかという心配もあるが、多くの人間は凄惨な事件を目にしたり耳にしたりして参考にしようとは思わないだろう。
 私は報道番組に携わることで、報道の大切さを知った。インターネット界隈にいる人の多くはマスコミが嫌いだろうが、本気で世の中を良くしようと奮闘している人間がいることも知っておいてほしい。

 私は後もう少しだけ、苦痛と闘いながら報道番組に触れていたい。

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