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救国の予言講演 1973~74年  5 国際勝共連合会長 久保木修已氏 唯物史観を壊滅せよ!


カゲでほくそえむ共産党


このようにして、あれをとり、これをとりしてみても、実に深刻な問題がある。日本人自身であるならば、この問題は誰もがこれをなおざりにすることができないはずであります。本当に真剣に考えなければならないのでありますが、この日本人の中に、そういう状態になってくることを、極めて歓迎し極めてほくそえんでいる、そして“天運到来”とか“よき時がきた”とこのように考えつづけている一部分の人々がいる。それはなんといっても、わたくしが問題としようとしている共産党であり、左翼勢力そのものであります。これは一種のムードではありません。その日の気分でそんなことを考えているのではありません。彼らはご承知のごとく、その思想が理念がそうなっているのであります。目的観がはっきりしているのです。“なんとかして神の力を弱くせしめ、あるいはその国をはやく転覆させたい。そのためには国民をずたずたに切りはなさなければならない。力を分散させなければならない。そして、その国を革命化させるためには世界から孤立化させねばならない”とこのように彼らは考えているのであります。このもっともいい条件にはまってきたのが日本自身であります。それをほくそえまずしていったい誰が喜ぶであろうか。
共産党は最近ニコニコ戦術でのぞんでくるといいますが、彼らは何も顔だけで笑っているわけではありません。腹の底から、笑いが止まらないのであります。“なぜ、こんなに、いい時がきてしまったのだろう”と、ふと口に漏らすほど、彼らが今日までどんなに努力しても日本国民の賢明さは、彼らの野望を許さなかったのであります。それが、突如として、降ってわいたように、このようなチャンスがついに来たというのです。“われわれの努力だけでなくして、こればかりは天が助けてくれたのじゃないか”というようなことで、かれらは、天運到来として“手の前足の踏むところ知らず”という状態に立っているのが、左翼勢力そのものであります。

共産主義者の金科玉条、唯物史観

さて、わたしが先程申しあげたように、この国際勝共連合に入った若者達は、ただちに街頭に出て、黒板を持ち出し、共産主義の理論の誤りを街ゆく人々に訴えるのであります。すなわち、彼らの持っているその経済理論、資本論の誤りだとか、あるいは、唯物弁証法という哲学体系に対する誤り、これを街頭で講義するのであります。ご多分にもれず、共産主義の若者たちや理論家たちが合い争ってそこに群がってきます。そして、その街頭で理論闘争をするということが毎日のことであります。そこで、わたしたちの掲示する理論に対して、彼らはうなづけるところはうなづくのであります。「なるほど、資本論のこういう点はまだ足りないところがあるかも知れない。まだまだ欠点があるかも知れない。あるいは哲学のこのへんが・・・・・・」というふうにしてうなずくのであります。
しかし、彼らは異口同音にいつも最後には胸をこうぜんと張って言っていく一つの言葉があります。「それは資本論とかいうものにはまだまだ改正されなければならないところがあるかも知れません。しかし、我々の持っている歴史観、すなわち唯物史観だけは、決して間違いない。この唯物史観からみると、たとえ、どんな現況にあるようにみえても、革命だけは必ず実現できる」とこのように彼らはこうぜんと言い張っていくのであります。この歴史の流れからみるときに、かくの如くして、彼らはその唯物史観という彼らの思想体系を金科玉条として、絶対的にそれに対する信頼を寄せているのであります。
だから、日本において一部の学者とか、経済学者たちが資本論のどこそこがおかしいとか、間違っているとか、あるいは哲学体系のどこがおかしいとかいう部分的なことをいくら批判してみても、彼らにはなんら痛くも、かゆくもないのであります。そんなことが問題ではないのであります。彼らの問題はやっぱり、なんといっても歴史観であります。唯物史観、これをどのようにたたきつぶすことができるかが、最も重要な課題であります。

孤立化の状況利用し教え込む

それはさておいて、とにかく、皆さん、彼らがその唯物史観というものを通じて、いかに日本の若者たちを感化するかを考えているのです。すなわち、このような孤立化された日本の状況を歓迎し、それを利用しようというふうに考えているのであります。たとえば、次のようにきわめて簡単に彼らは云うのである。「この唯物史観によって、歴史をみてみると、そこに間違いないことがある。それはすなわち、いつの歴史の中にあっても一握りのような者たちが、常に絶対多数の者たちを支配し、搾取し、そして圧迫してきた。これだけは間違いないだろう。しかし、理論的に考えてみるときに、一握りのようなものが絶対多数の者たちを支配するなんてことは、いったい、理屈で成り立つであろうか?いや、そんなことは、理論的には絶対成り立たないのであります。しかし、歴史の流れは常にそのように流れてきたではないか。事実として現われてきたではないか。理論では、成り立たないことが事実として現われてきたのであります。
その矛盾、そのからくりが、いったいどこにあると思うか?それは他でもない。すなわち、その一握りがいつも絶対多数を支配し、搾取できたのは、一握りがいつも、国家、いわゆる権力というもの。具体的にいうならば、警察力、あるいは軍隊(自衛隊)、こういうものを背景としてきたからである。ゆえに、これからわれわれの時代を迎えるときには、早くこういう国家権力をたたきつぶせ。こういう国家を早くなくせ。そうしなければ、われわれの時代は絶対にできない。」
このように彼らは唯物史観という歴史観を通じて教え込んでいくわけです。

不安感あおり国民分断はかる共産党

これ以外に行くべき道がないとする若者たちは、人生これからというときに早く、そういう時代を迎えねばならないとして、いかなる非常手段を通じようとも、ゲバ棒であろうが、火炎ビンであろうが、とにかく国家を転覆するために、国家を壊滅させるために、われわれはどんなことでもやっていくという、そういう使命感が彼らにはあったのであります。ゆえに、今日までこのような信念を持って努力してきたのでありますが、なかなかそういう状況が生れてこなかったのであります。ところが、先程申しあげましたように、中華民国を捨てたり、あるいはアラブ寄り外交になったり、このように非常に不安定な日本に対して、世界の不信の念が極に達して、日本はまさしく国際条理から孤立化してしまったのであります。田中さんが東南アジアに行ったとき、“田中帰れ!”という日本転覆させる反日運動が相次いで起こった。もちろん、その背後には様々な陰謀、その他の宣伝もあるでしょうが、いずれにしても日本に対しての不信感が、そうさせたことは間違いないのであります。こういうふうにして、どこにいっても嫌われていく日本。このように国際的に力が弱り、また国内においては、やれ不況だとか、あれがなくなる、これがなくなる、という流言飛語などに国民はあわてふためくという状態であります。いわゆる、主婦たちを中心として浮足だった日本の状態。これを巧みに宣伝、心理作戦、その他の手段によって、国民を右往左往させ、ずたずたに分断して革命しやすい状況をつくり上げていこうとしているのが共産党であります。

ゼネストの本質は政治闘争

今年は日本経済が最悪の状態になって、「中小企業などは、極めて不況倒産の数をふやすだろう」「失業者も巷にあふれるであろう」といういささかセンセーショナルな表現ですが、いずれにしても、このような不況の時を利用し、労働者を煽動していく共産党の本質があるのです。そのよき例が、ゼネスト春闘であります。日本全国から九百万人といわれる人々を動員して、ゼネラルストライキを行なう状態にきているのです。かつて、日本は終戦後、一度二・一ゼネストが行なわれようとしたことがありました。しかし、あの時は幸いに、GHQ――マッカーサー司令部があって、彼の命令によって軍隊の力でこれを見事に鎮圧したのでした。しかし、皆さんもご存知のように、ゼネストの本質は単に経済闘争というようななまやさしいものではない。ゼネストの本質は、まさしく政治闘争の傾向をもっているのです。ですから、国家転覆の陰謀を持っていることは間違いないのであります。仮に今これだけの人々が動員されてそういうことが行なわれたとき、これを鎮圧するため政府が下手に手でも出したなら、ただちに左翼勢力の絶好の宣伝材料に使われてしまうだけであります。「国民の正当な権利を見よ、国家権力は国家の経費を使っている。つまり、“警察は犬だ”とか、“警察は権力の犬”だ、こんな犬を使って、われわれの正当な権利を弾圧しようとしている。こういうものはぶっつぶさなければならない」このような煽動をまともに行なっているのであります。だから、政府としては下手に介入できないのであります。以前のときはアメリカ軍がいて、やってくれたから政府は何もやらなくてよかったのです。
しかし、今はなにもないのであります。だから、政府がやらねばならない。しかし、下手に介入はできない。このようにして、現実はなすところのないままに、手を束ねている状態になっているのであります。このように考えてみれば、際限なく今は極めて深刻な状況であるといわざるを得ないのであります。

戦略戦術を使い分ける共産党

皆さん、先程わたしが共産党の左翼勢力が、朝に晩に、日本を転覆し、国家を壊滅することばかり考えていると申しましたが、彼らは思想、理念を通じて目的をはっきりしたうえで、地下にもぐろうが、表に出ようが、とにかく、一瞬も休みなく“どうやったらこの国をつぶすことができるか、この国を倒すことができるか”ということを考え続けている一軍の群をなしている彼らのことだから、あらゆる状況を想定して、それに対向する対策は、十二分に立てているのである。いつも、わが陣営に属するものは“共産党というものはすばらしいな。なんでもかんでも先手先手とやるじゃないか”というのですが、確かにその通りであります。彼らは、どんな瞬間でもそのような事を考慮して、あらゆる心理的、定期的、戦略的なものをそなえているのであります。だから、どのような状況の変化がきても、ちっとも驚かないのであります。すなわち、彼らは、ゆうゆうと柔軟性を持って対応できるように、全部考え尽しているのであります。それに較べると、わたしたちは、極めてお人好しなのであります。ここにおいでの皆さんの中に、この日本を、おりあらば転覆してやるとか、この日本を奪ってやるというようなことをお考えになる人はいらっしゃらないと思います。ただ、善良な市民で、平和的に生きたい、生活したいと考えるくらいです。だから、われわれの考え方は甘く、おそまつなのです。人間というものは、自分達の思考範囲の中で、相手もそうであるものと、つい錯覚を起すことがあるものです。ゆえに、共産党はニコニコ笑って出てくると、『ああ、だいたい俺たちと同じ考えをもって、彼らもやっているのだな」と安心して手を握ってしまったり、彼らの言うことを聞いてしまう傾向にあるのであります。このように、彼らは戦略戦術をたくみに使い分けてきますから、いかなる状況の変化がでてこようと、決してあわてふためかないのであります。

失う物なかったロシア時代

あのロシアで、革命が行なわれてから今年で五十七年目になりますが、その間、十四ヵ国が次々と共産化したのであります。さて、その当時、ロシアにおいても、北朝鮮においても、中共においてもそうでありますが、一部の煽動家が、“さあ、万国の労働者よ、団結せよ!暴力革命によって共産化して、われわれの天下をとろうじゃないか”とこのように煽動した時に、当時の人々、すなわち、労働者階級はみな立ち上がってついていけたのであります。
なぜならば、当時は血を流し危険なことを、あえて犯しても彼らは、失って困るものは何一つ身につけていなかったのです。もし、あったとするならば、それは手や足につけられた鎖だけであります。彼らにとって、この鎖を断ち切ってくれるものがあるとすれば、それがなんであってもかまわなかったのです。もし、それが可能ならば、気違いざまであってもやるということで、彼らのエネルギーは巨大なものとしてふくれあがり、ついに、血ぬられた革命をなしたのでした。しかし、今日の日本をとりまく自由世界に対して、あの当時と同じ問題を提供しても、これはできません。このことを百も承知の日本共産党は、国民の前にはいかにもニコニコして議会制民主主義を通じて、段階的に、“われわれは皆様の納得づくめで革命をいたしましょう”“革命後もみな認めましょう”と、国民の願う立派な社会にするようなことを言っているのであります。もし、日本共産党がその本質にあるところの暴力革命というものを今日、国民の前にはっきりと打ち出したならば、今日の日本の勤労者階級は、一人もついてくることができません。なぜならば、あの当事は失って困るものは何もなかったけれど、今日の日本の労働者、勤労者階級は危険なことをあえて犯したくないのである。革命に参加するには、失って困るものをあまりに多く身につけているからです。日本の勤労者階級はもはや、不況なりといえども、一軒の家を持ち、あるいは月賦であろうとも一台の自動車を持ち、あるいは、月給の何倍かの貯金もあれば、暴力革命などという自分たちの生活を破壊するようなことを犯してまで思い切ろうとするものはないのであります。だから“こんなことはいやだ”という声も百も承知である共産党は、国民の心理をたくみに操作していく戦略戦術に切りかえてきたのです。

精神的飢餓は共産主義の温床

共産党はこのように、国民の心理をうまく利用して、失って困るものを“どんどん与えてやれ”というような姿勢に出てきているのであります。それが民商、民医連、その他の様々な巷の中の組織を作って、そして“税金も安くしてあげましょう”“あれもあげましょう”“これも配りましょう”こういうようにして国民に与えてやれば日本を革命する近道である、と彼らは確信しているのであります。日本には資源がない。しかも、世界から孤立したならば、資源を売ってくれなくなる。それでなくても、すぐにでも不足状態をまねきやすい日本で、国民の欲望のみを満たそうとして、放出するようなことをすれば、結局、国家が疲弊してしまうだけであります。
共産主義は、この国民心理を巧みに利用して、あれもあげよう、これもあげよう、さらに、不平不満があったら何でも言って下さい、と国民に近づいているのです。人間の欲望は限りがありません。この性質は、不平不満がいつまでもなくならないということと同じなのであります。これは世の中が豊かになればなるほど、慢性的な人間には精神的飢餓状況ということが増えてくるのです。これは心理学の立場から云っても当然であります。故に、世の中が良くなればなるほど、それが共産主義の温床となり、実にその拡大に迫車をかけているのであります。
もし、こういう状況を防ぐとするならば、いかにこの欲望を抑制することができるか、ということにかかっていると言っても過言ではありません。だから、事実としては共産党、共産主義は問題ではなく、むしろ問題なのは、わたしたち一人一人の心の中に、巣食っているところの悪らつで、むさぼる、そういう欲望性をどこかで取り除かなければ、共産主義はどこまでも出てくるのであります。たとえ、共産主義をどんなに弾圧しても、やがて人間の心の中に芽ばえてくる矛盾性に同調し、巧みに入って集団化、組織化するのであります。たとえば地域住民のエゴとかいわれますけれども、実はこれは一人のおかみさんから始まっているのです。“あなたの不満だけではいけません。そんなものは大きな力にはなりません。だから、そのあなたの不満とそれと同じ不満を持った人たちと一緒に、力を合わせましょう”と、このように共産主義は巧みに団結してくるのであります。

団結できず悲惨な道を歩む善人

皆さん、今日までの歴史において、善人というものは、いつも団結しなかったから、善人は悲惨な結果に終ったのであります。悪人はたった一人でも悪党というのであります。すぐに悪党は、徒党を組むけれども、なぜか善人とか、良心家は、その自分の良心、すなわち、千差万別の良心基準において“おれはこれがいいんだ”“あれがいいのだ”“おれはこれが正しいと思う”というようなことを言って、今日まで団結をしなかったのであります。
宗教家が、一番こういう立場において頂点に立たねばならない。宗教家こそ、エゴイストであってはならないのであります。自分の集団だけ、自分の教会だけはなんとか維持しようとして、本当の意味で国民を救おうとか、世界人類のために、ということは現実的になされていないのであります。これが、国民をこのような悲惨などん底に追いやってきた現況になっているわけであります。こう考えてみると、共産党は、この盲点をついて、巧みに国民の不平、不満をあやつってきたのであります。そして、当然できないことまで政府、あるいは地方自治体、会社へと訴えてごらんなさい、とけしかるのであります。それがうまくできないときは、政府が、地方自治体が、会社が、悪いのだと責任を転嫁するのであります。
共産主義というものはこのように最も悪らつで、卑怯な思想を持っているのであります。自分たちは決して間違っていない、自分たちは常に正しい、相手が悪いんだ、政府が悪い、こいつが悪いと教え込んでいくのであります。これが共産主義の考えであります。残念なことであるが、今の間は誰しも、自分自身の中で、いつも己をくりかえし反省するという基本的なことが必要になっているのであります。それにもかかわらず、共産主義はいつも他に目を向け、自分をかえりみようとはいささかも考えないのであります。

唯物史観を教え込む日教組

皆さん、日本が、教育などで暗黒のような状況になっているのは、日教組が遠因になっているのであります。さて、わたしなども、物心のついたころ、人生を誠実に歩んでみたいと考えたとき、どんな人生が一番いい人生なのか、どうせ歩む人生ならば、私は最高の人生を歩んでみたいと思ったのであります。そのときに必ず、物差しが必要だ。すなわち、どのように歩めば価値があるのか、というように人生観というものが必要であったのです。“それは一体何か”、このようにわたしは、暗やみに求めつづけたのでした。両親に聞いてみようか、と思った。お父さんも、お母さんも忙しいということもあって、なかなか的確には教えてくれない、そういうことで両親に聞くわけにもいかず、学校の先生に聞くべきか、友だちに聞くべきか、悶々としたことでした。
今日の、日本の若者たちは、まじめな若者であればあるほど、真剣な若者であるばあるほど、自分にとって何が最高の価値ある人生か、これこそ、ひそかに求めつづけているのであります。それがどこへ行っても得られない。皆さん、子供のころには、どういう人間を尊敬するかというと、とかく自分の両親よりも、学校の先生の方を尊敬するのであります。なぜかというと、子供のころは物をよく教えてくれて、物をよく知っている人を尊敬するという傾向にあるのであります。お父さん、お母さんたちは、忙しいということもあって、なかなかいろいろなことを教えてくれないけれども、学校の先生は月曜日から土曜日まで、国語、算数、音楽、体操と、いろいろなことを教えてくれる。だから、子供のころは学校の先生のいうことの方をよく聞くのであります。この先生たちが、この純真な頭のいい、しかも真剣に求めつづけている子供たちに対して、小学生には小学生なりに、大学生には大学生なりに、唯物的な人生観、世界観を教えているのであります。すなわち、唯物史観を教えるのであります。
われわれは、真剣なものであるほど人生観、世界観、そして歴史観が欲しいのであります。悠久なる歴史の中にあって、どのように歴史が流れ、今、自分はその歴史のどういう観点に立っているのか、そして、どのように未来に引き継いでいくべきか。こういう重大な歴史の観点がわからなければ、本当に確固として歩むことができないのであります。それをいいことに、日教組の先生は、将来性のあるまじめで頭のよい青少年たちに唯物的な人生観、世界観、歴史観を教え込んでいるのであります。

"同調しない者は消す”正反合の論理

その根底にあるのは、あの唯物弁証法の哲学であります。それは、つきつめれば、正―反―合、正―反―合という原則で世界が発展していくと言われている。さらに具体的にみてみると、自分たちを反体制の中で今日までの歴史、伝統というものを抹殺してしまわなければならない。あるいは、自分たちに同調しないものがいたとしたら、この地上から消してしまわなければならない、という結論に達するのである。
故に、民主青年同盟のような、中途半端な人間たちの考え方とは違って、彼らは本当に真剣に考えているのであります。さて、これが人生観となり、世界観、そして歴史観となった人間というものはどうなっていくのか。

唯物史観を越えた思想を探し出すことが問題

あの連合赤軍の浅間山荘における十数名の殺人事件。昨日まで仲の良かった兄貴と弟が、自分たちに同調しないからと言って、弟が、皆の見ている前で兄貴を殺して、何の良心の痛みもないどころか、むしろ平気なのである。なぜそうなるかというと、正反合、正反合と社会は発展し、この原則が人類を幸福にするのだ、
だから自分に同調しない奴は殺しても、それは良心の痛みどころか、これは人類の正義であり、われら、人類の味方である。こういう気持で刺殺していくのだから、彼らは平気なのである。
赤ん坊が七ヵ月もおなかの中にいる妻を、その夫が三日間も放り出しておいて、餓死させて、それでも彼らは平気なのです。昨年も、そしてつい先日も、学内で、繁華街で、恐しい内ゲバ騒ぎをしていますが、学生たちがともに殺し合っているのです。先日、殺された学生は、数十ヵ所をゲバ棒で頭をめった打ちにされ、頭蓋骨はこなごなになり、これほどまでして、殺されねばならないのか。あるいは、千葉で兄貴を殺すべきであったのに、間違ってお風呂に入っている弟を半殺しにしてしまった。瀕死の重傷をおわせてしまった。こういうことが、毎日、毎日、全国の大学のキャンパスで、昨日などは、銀座の喫茶店でそれが行われた。
遂には、そういう所まで人々を殺し合っていく。それは、あの唯物哲学の、この正反合の哲学をつきつめてみると、そのようになっていかざるを得ないのであります。親であろうが、なんであろうが、自分達に同調しないものは、そういう人生観になってしまう。これは真剣な人間であればあるほど、頭の良い人間であればあるほど、だからこの世の中に対して真剣でない人間は、そういうことは余りしない。ここに原因があるのであります。
いい加減に日々を送っている人間よりも、もっと大切な若者が日教組教育を受けると、こういう状態になっていく。この傾向を考える時に、われわれはこの教育、そして、いかにして唯物的な人生観、世界観、歴史観をのりこえる、超越しうる人生観を、こういう子供たち、青少年たちに、われわれ、大人たちの責任において、これを救えていくことができるのか。どういう人生観を与えていくことができるか。これが問題であります。そして最後には、彼らが常に公然と胸をはってひき出すところの、唯物史観を絶対視しているが、これを乗り越える歴史観をいかにして教えていくか、これが問題であります。どこにそういう歴史観があるのかが、問題であります。

現象よりも本質をえぐり出そう

今、国民はトイレットペーパー、あるいは、灯油が足りない、砂糖が足りないというようなところに目をやっているいとまがないのであります。今、どこにそういう思想があるのか。その共産主義の唯物的な人生観以外のものがどこにあるのか。それを真剣に求めていかねばならない重大な時であります。しかし、残念ながら、物、物、物と共産主義や唯物論者となんら変わりがない。われわれは、ただ物だけに目が行って、そういうことが一番大切な問題である、ということに対して目が行かないのであります。
最初に私が申しあげましたとおり、わが国際勝共連合はその本質を追求するわけですが、この世の人々はむしろ本質よりも現象的なことを、政治的に何らかの方策でこれを解決しようとあせっているのでありますが、これはどうどうめぐりして一つも解決にならない。“出物腫れ物所嫌わず”とよく申しますが、おできがどんなに体の表面にできたからといって、いくら手術しても病原菌が本体にある上は何らの解決にならない。その本質をえぐりだしていかなければならない。これが思想なのです。


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