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救国の予言講演1973~74年  6 国際勝共連合会長 久保木修已氏 ヒューマニズムを克服せよ!


共産主義の温床となったヒューマニズム

共産主義を乗り越える思想がどこにあるのか、皆が真剣に求め続けていかねばならない必要がある。そこにいたって、最初にわたしがお約束申し上げましたように盲点が一つあるという。なぜ、共産主義が、人々の警戒心をよそにあざ笑うかのように増えつづけるのか。そこに盲点があると私は申してきました。この盲点が実に、この問題に言及されてくるのであります。
すなわち、盲点となっているものは皆様方もよくご存知の、あの語感の甘い聞く耳に耳あたりのいい言葉、それはヒューマニズムであります。日本流で言えば人道主義とでも申しましょうか。あるいは人間性尊重と申しましょうか、この言葉の、この考え方が、実に共産主義の温床でございます。これをなぜか人々は正面切って国民に訴えようとしない。それをいいことに、共産主義者はヒューマニズム、人間性尊重、人道主義という実に甘い語感があるこの言葉の考え方で、それに抵抗しにくい我々国民にどんどんこれを浸透させてのぞんできている。実に、これが共産主義の温床なのです。

ヒューマニズムの語源はカトリックから

さて、この問題を詳しく掘りさげていきたいと思います。ヒューマニズムというものは、何といってもあの古代ギリシャ・ローマの昔からその発生があったに違いありませんが、具体的に現われてまいりましたのは、何といっても中世ヨーロッパのキリスト教、なかんずくカトリックの考え方から具体的に出発してきたのであります。すなわち、当時の中世ヨーロッパにおきましては、キリスト教が神様、神様と言って教えを説くことは尊いことでありますが、当時の人々の間にすでに信仰というものの炎が、信仰というものが薄れ始めていた。

形骸化した信仰の中から理性による革命の炎

信仰の炎が燃え尽きようとしているにもかかわらず、そういう形骸化した信仰の中に、ただ一部の聖職者が神の名をかたり、“神様”“神様”“神様”。そしてその反対に、“汝らは罪なり”ということを言い続けてきた。当時の人々としては重苦しく、息苦しく、どうにも我慢ができないという極限に達して、「神様もいいですけれど、もう少し人間というものを認めて下さい」こういう考え方が当然生まれてきたのであります。このようにして、人間性というものは、開発されるべき人間の力とか、あるいは美意識とか、さらには人間の理性、そういうものが段々と必然的に高くなってきたのであります。
さて、田中首相がパリに行って、ルーブル博物館からモナリザの絵を借りてくるということが大きな話題になりましたが、そのようにラファエロとか、ミケランジェロ、さらにはレオナルド・ダ・ビンチという人々があいついで輩出されて、人間のそういう美意識がだんだん高まり、当時の文芸復興、ルネッサンスというようなものと見事に結びついたのであります。そして今日、われわれが見るような百花燎乱たる芸術の世界が出現している。その恩恵はきわめて大いなるものがあります。さらには、人間の理性の開発は、高度な近代工業社会というふうにして段々発展してまいりました。そして、羅針盤の発明などによって、あるいは希望峰を回って、あるいはアメリカ新大陸、あるいはインド洋を回って東洋に行く、というふうに、世界的に理性が広がってきたのです。
このように開発されるに従って、人間の理性を最高に高めていけばあらゆることは解決できるのだ、というふうに段々思ってくるようになりました。いろんな技術を開発しいろんな力を身につけていけば、人間の心の中にどす黒くうずまく情念、あるいはむさぼる欲望、際限のない欲望といったものは、理性を高めてゆくことができたなら、そういうものは全部解決できるものと考えてきたのであります。

人間理性至上主義は人間を傲慢にする

しかし、人間中心主義とか、人間性の尊重という面が開発されてきたことはすばらしいことですが、残念なことに、人間というのは、そうなってくると、勢い傲慢になってしまうのであります。人間の力だけでなんでも出来るように錯覚を起こしてしまう。だから、宇宙の大生命、いわゆる神とか、仏とか、中国流の天というような考え方というものは、だんだんと薄れてくるのであります。
“そういうことはどうでもよい、そんなことよりも、人間の力をもっともっと開発していけば、あらゆるこの世の中のものごとは全部良くなっていくんだ”というような進歩主義、こういう考え方が、きわめて広範囲にいきわたって、人間自身の傲慢性は、もうとどまるところを知らないようになってしまうのであります。ここに問題があるのであります。ここに、ヒューマニズムというものの限界性があるのです。

ヒューマニズムまる出しの悲惨な日本

しかし、まだヨーロッパにおいては、なんといってもキリスト教の根源というものが、なんの、かんのといっても、深く根づいておりますから、まだまだそういうことに対する反省心はあるのであります。ヒューマニズムがアメリカに入ったときは、キリスト教の精神がアメリカ人の支柱となっていましたから、まだまだその抑えがきいたのですが、それが日本に入ってきたときは、このヒューマニズムの考え方まる出し、人道主義まる出し、というようになってしまったのであります。
では、このヒューマニズムという考え方が、どこに根差しているのかを調べてみると、要するに、七十年、百年位の肉体の生命だけが全てであり、あとは何もない。すなわち、この現世の人間の生命はこれだけで終わるという考え方だと思います。七十年、百年の肉体が終われば、死ねば来世などはないという考え方であります。永遠の生命とか、死後の世界とか、宗教の世界といったものはナンセンスであり、非科学的、そしてそれは迷信である。こういう考え方になってくるのであります。このヒューマニズムとか、人道主義は、どうしても、刹那主義的な人生観となってしまいます。どうせ七十年や百年の生命だから、後はないのだから、その生きている間に、面白く、おかしく、楽しくなければならないと剎那主義的人生観というものになってくるのです。今日、一億の国民は、おしなべて、刹那主義的な人生観をもち、生きている間に、あれも欲しい、これも欲しい。あいつがこれをもらえば、俺にもっと、というふうにして欲望をむさぼり、際限なくかりたてられているのは、実にヒューマニズム、人道主義的な考え方の影響があるのであります。

刹那主義的考えはエゴイズムの人生観に帰着

そして、この刹那主義的な考え方は「七十年、百年の間に全部、自分が楽しまなければならないとか、人をかきわけてもやらなければならない。だから他人なんかどうでもよい」という考え方に通じてくる。すなわち、これは自己中心的、エゴイズムということに帰着していく人生観となるのであります。そうなると、高度経済成長政策というものは、きわめて歓迎しやすくなるのであります。どうせ七十年、百年の人生だもの、高度経済成長政策であろうが、なんであろうが、なんでもよこせ、こうなるのであります。これが残念ながら、共産党をはじめとして、自民党、その他のあらゆる政党が、国民の皆様、国民の皆様と言って、できるだけ怒らしてはならないと、ご機嫌とりして、政策をちらつかせているのであります。これは、国民が刹那主義的、いわゆるエゴイステックな、自己中心的な人生観にあるから、それに迎合して、政治家は国民あっての政治であるとして、「国民の皆様にあれもあげましょう、これもあげましょう」とやらざるを得なくなるのであります。国民はこれをいいこととして、「あれもよこせ。これもよこせ。よこさなければ、政府が悪い」あるいは「あいつが悪い、会社が悪い」といいたてるようになっているのであります。たとえ、共産主義と同調しないと云っても、結果は、このようにあいつが悪い、こいつが悪いと言うように、全く共産主義と何も変らない行動に出てしまうのであります。

悪らつな共産主義に同調しやすい国民体質

共産主義の、もっとも悪らつにして、もっとも卑怯な人生観は、自分だけはいいんだ、自分が正しく、いつも会社が悪く、政府が悪い、田中首相が悪いということである。そのような最も、卑怯な考え方に、われわれ国民は、いつとはなしに同調してしまっているのであります。これがヒューマニズム、人道主義の陥りやすい、恐ろしいところです。そして、このヒューマニズム、人道主義という言葉は、通常の意味においては誰もこれを否定できません。いったい誰が、理論的に人道主義は間違っている、ヒューマニズムは間違っている、などと正面きってこれらを否定できるでしょうか。誰も否定できないのです。皆さん、共産主義者や、唯物論者こそ、人道主義、ヒューマニズマのどこが悪いと言うのか、と二言目にはこの言葉を使って、国民の前にのぞんでくるのです。
しかし、われわれの用いるヒューマニズムは、彼らが言うヒューマニズムとは天地の開きがあります。われわれのいうヒューマニズムとか、人道主義というのは、七十年、百年だけの、限界のある肉体の生命だけがすべてだと考えてみても、またそのように納得してみても、さあ、今晩、家に帰って、布団の中に入って、考えてみる場合に、待てよ、俺が今このまま死んでしまったならば、俺はどうなるのか。この肉体は、あるいは死後の世界は、あるのか、ないのか、近親者が死ねば、線香の一本も立ててきたくなる。あるいは、数会にも、お墓にも、お参りしたくなる。そういう気持が、いったいどうして湧いてくるのであろうか。あるいは、若者たちの中に、愛というものを中心として幸福の極地があるとするならば、それが瞬間で終わることなく永遠に続いて欲しい、と限界性のある肉体であるにもかかわらず、そういう思いがどうして湧くのであろうか。もしかしたら、永遠の生命があるのではないだろうか、と理性が深くなればなる程、そういう思いは、際限なく起こってくるのであります。

宗教団体やらあらゆる平和運動の中に浸透

このように、われわれの用いているヒューマニズムという考え方は、中途半端でいわゆる自信がないのであります。だから、このヒューマニズムという思想は、この言葉それ自身としては存在できません。好んで良心的な個人の中に、あるいは宗教団体の中に、こういう考え方は入り込みます。そして政党、学生運動、あらゆる平和運動の中に、このヒューマニズムという考えが好んで入り込みます。中途半端な考えで、語意が甘く、聞く耳に非常にいいので、この言葉はいくらでも入ることができる。そして、もともと個人や団体が持っているその考え方と容易に妥協するのです。なぜなら、非常に中途半端だから妥協しやすい。そして、妥協したまま、その個人の中に温存されその団体の中に温存されてゆく。
その個人の中に入ってきたヒューマニズムは、その個人をして、自分の行くべき目的に対する自信、確信をやがて失わせていきます。そうでなくてさえ、今日のように、昨日まで探しながら、今日のことは明日はもうそれは誤りとなってしまう。こういうような定めのない、実にはかない世の中であります。ゆえに、このヒューマニズムという考え方が入り込んだ人間は、人生に対する目的性なんかわからなくなる。たとえば、この問題はどう考えたい、どう理解したらいいんだというようなことに対して、判断力がだんだんなくなる。こういうふうにして、酔生夢死のような、その日だけ楽しめばいい、こういうこととだんだんなってくるのであります。

宗教家こそ街頭に立ち責任ある使命を果せ

宗教団体が一番深刻です。宗教団体は、この唯物的な考え方、このヒューマニズム、こういう人生観を、だれよりも国民の先頭にたって“そうあってはならない。これを正していかなければならない”という責任ある使命が、宗教家にはあるのであります。
このヒューマニズム、人道主義が入ってくると、宗教団体はだんだんと使命感を失っていきます。そして、何かサロン的な雰囲気になったり、ただの座談会のような形になって宗教本来の厳しさというものがなくなってまいります。そして、やれ、ゴルフだ、レジャーだ、とそういうお遊びだけは一人倍になってくるけれども、しかし、今日のような国家の危機、世界の危機に対して、宗教家は街頭にでも出て、国民の前に立って“さあ国民よ、わたしと共に来い。私がこのようにやるから、みんなも来い”こういうのが、本当は宗教家の勤めであります。今日、大をなした宗教家の開祖たちは皆、墨染の衣を一枚着て、全国を巡って、国民の先頭に立ち、一人一人の心に訴えていったはずであります。
しかるに、今日はその高僧たる宗教家たちは、ただ単なる大きな伽藍をかまえるだけで、なんら国民のことを、考慮しようとしない。しかも、そのヒューマニズムというものは、エゴイズムの主張だといいました。刹那的な主張だといいました。ゆえに、宗教団体に入り込めば、その教え方はやがて、自分の宗教団体だけの維持、その集団の維持だけにきゅうきゅうとして、集団エゴ、すなわち、一つのエゴイズムとなってしまうのであります。他をかえりみなくなり、何かを言っても、何かをやったとしても、世界平和のためとか、国民のためとか、これは何かのついでになってしまうのであります。これがヒューマニズムの恐ろしさであります。
共産主義者の言うヒューマニズムはわれわれの使うヒューマニズムとは違う。彼らは間違ったなりに、先程、申しあげたように、唯物論の哲学を基本として、百年位の肉体の生命がすべてで、あとは何もない、という考えに心から徹底しているのであります。唯物論の考え方は、死後の世界とか、永遠の生命という宗教問題にふれると、最近の学生、青年たちは「ナンセンス、ナンセンス」と言って無視し、迷信あつかいするのであります。
ゆえに、宗教団体に一番徹底的にかみついてくるのであります。それは自分たちの思想を侵されることを恐れて、キャンキャンかみついてくるのであります。内容のある者は堂々としていて、そんなふうにかみついてきたりはしません。このようにして、共産主義のヒューマニズムは、そのヒューマニズムを徹底化し、完成させてしまったのでありますから、われわれみたいに中途半端なヒューマニズムとは、すでに勝負はあったのであります。

共産主義こそ非科学的独善宗教

彼らは宗教なんか阿片であると、このように軽べつする。俺たちはそんなものではない。俺たちの思想は科学的な思想である。科学的だなどと言われると、私たちの頭は科学的な構造になっていないように思えてしまう。科学とは何か。科学的だとは何か。私たちは、彼らがそんなことをいうと、自分たちの頭が科学的な思考方法になっていないとか、表現があまり科学的でないと初めから諦めてしまって彼らの言うがままになってしまう。
科学的とは何か。科学的とはまず、これはこうあるべきじゃないかというような仮説をたてて、あらゆるものの状況を合わせながら実験をします。実験には必ず普遍的なものと特殊なものと結果がでてきて、それをまた色々なことを考慮しながら実験する。普遍的なもの、特殊的なもの。また実験し、普遍的なもの、特殊的なもの。これを際限なく繰り返してはもうどうにも分けることができない、というところまできた時に初めて科学の成果といえる。そのぐらいに科学というものは謙虚なもので、その中途において、異端的といわれるものでもこれを謙虚に扱いながら実験を繰り返していくのです。これが科学なのです。

しかし、彼ら共産主義者は自分たちの唯物論を基盤として、そういう人生観をもってこれが全てであると疑わない。ゆえに、人間の生命が七十年、百年だけの肉体で終ったら、それで全て終りで後は何もないというのです。たとえば、よく大学で教授が何か言えば、ゲバ棒の学生たちが一斉にゲバ棒を振り立てて、「ナソセンス、ナンセンス」と言って人の言葉を封じていくように、彼らは絶対に人のことなど聞かないのです。
「あれは非科学的であり迷信です。」このように一言のもとにきめつける。これがなんで科学的と言えましょうか。絶対にそういうものは科学とは言えません。彼らは宗教は阿片だと言いましたが、むしろ彼らこそ実に独善的な宗教のようなものであります。ドグマチック(独善的)な宗教、これが共産主義の正体です。これを国民が見誤り、その対象はとんでもないおかど違いとなっていかざるをえません。その間に、彼らはゆうゆうと自らの勢力を拡大していくのです。

宗教界は共産主義に対して無防備である

この独善的な宗教の次元からは、必然的に狂信的協力性というものが生まれてきます。狂信的な協力性は、狂信的な行動性となって現われてくることは当然であります。
そして、心理学でよくいいますように近親憎悪、すなわち遠くの他人とはよく交わえるのに、一番身近な親子の間が相克し血で血を洗うような憎しみ合いをすることであります。これはわたしたちの中にも潜在意職としてあるものであります。共産主義という宗教はまさしく近親憎悪に一番近く、そして独善的な宗教もそれに最も近いものであります。あの藤原弘達氏の事件にありましたように、創価学会と共産党との血で血を洗うような長期間の激しい言論弾圧事件は、この近親憎悪の一番最たるものであります。このようにして、共産主義というものは実に日本の宗教団体、世界の宗教団体を問題にしてきたのであります。宗教団体を崩してしまえば、その国家を崩すことは問題でなくなります。世界の国々はキリスト教を国教としているところが沢山あります。そういう宗教団体を崩してしまえばもう恐ろしくない。このことは今日においても同じであります。
ゆえに、宗教界こそ共産主義に対して、一番国民の先頭に立って闘わなければならないのですが、今日の宗教界のほとんどは、共産主義者だって人道主義的人間なんだから一緒にしましょう、と言って共産主義者に軒先を貸してしまう。その結果、母屋をとられるようになるのですが、ほとんどの宗教団体はそれに気付かないのです。そして、このような宗教団体が大きな伽藍を構えるほど、実にその内部は屋台骨が大きく揺れているのです。宗教団体だから表になかなか現われないのですが、私はそのことをよく知っています。このようにして、共産主義は一番宗教団体を毒するのです。にもかかわらず、宗教界は共産主義に対して一番甘い。これは日本において大変深刻な現象であります。

ヒューマニズムの理論に革命の限界

このことを一番心配されたのはあの三島由紀夫先生であります。よく三島先生が日本を滅ぼすものは、日本人の気持、この人道主義的な風潮である。これを早く打ち破らなければ日本はとんでもない処に行くということをいつも心配しておられました。しかし、私は今考える時に、残念ながら三島先生がそのヒューマニズム、人道主義のどこが悪くてどうあったらよいか、ということに対して的確に国民に提示しえないままに、時は刻々と過ぎ、国はどんどん悪化し、もうこれまでということで自分の身を切り裂き、国民の前に“この肉体の生命以上の尊いものがあると、そのような刹那的なエゴイズムの人生観を持ってこの日本を毒してはならない”と国民に警告を発したのでありますが、ああいう悲愴な死を通らせたくなかったというふうに考えるのです。
イスラエルのテルアビブで、大きな乱射事件を起した全共闘出身のあの岡本公三、彼は新聞記者に答えた談話の中でこのようなことを言っています。僕たちが教えられていることは、僕たちが死んだならあの夜空にまばたくお星さまになる。そして、この日本民族の行先をみつめたい。こんなことを彼は言っています。この言葉はきわめて幼い者が、なにか星の王子さまのような表現に聞えるかも知れませんが、しかし、あの純心で真剣な若者であればあるほど、すでにこの肉体の人生だけが全てではないと何か星のようなものを表現しながらすでに何か感じ始めているのです。この日本を毒しているそういう刹那的、人道主義的な言葉に誤魔化されているこの国民の悲惨な末路というものを彼らは敏感に察知しているのです。しかし残念ながら、この日本を毒している文明を破壊しなければならないとして、このヒューマニズムの極道である共産主義の理論をもってこれをやろうとしているところに彼らの限界があるのです。彼らの行動はすぐ分裂状況になります。だから、トップの革命家たちはよくノイローゼになったり、殺し合ったりする。そういう極端な行動に移るのは、矛盾がある共産主義を基盤として、同次元に立っているヒューマニズムを打ち破ろうとするところに大きな問題があるからです。

村八分恐れて反戦、平和運動に連名する主婦

みなさん、共産主義はどのようにヒューマニズム、人道主義という言葉で国民の前に臨んでくるのかといいますと、単純なことではないけれども一つの例を申しあげます。ヒューマニズムという言葉は否定できませんが、否定できないからこそそこに臨んでくるのです。人道主義にも劣る行為があります。その一番最たるものはなんと言っても人と人とが殺し合う戦争だと思います。私たちは人道主義上、戦争に反対し平和運動をしなければなりません。しかし、共産主義者たちは、なにもそのような反戦運動とか、平和運動というような堅いことばかり言うのではありません。チューリップの会とか、ヒヤシンスの会とか耳あたりの良い会をいくらでも作り、歌って踊って恋をしてというような場を通して深入りさせていくのです。そして、さあ、あの佐世保に行って、横須賀に行って人道主義的に原潜に反対しなければならない。それは戦争につながる、人殺しにつながるのだ。これは絶対反対しなければならない。あるいは米軍基地、これも反対しなければならないのじゃないか。このようにして、だんだん自分たちの陣営に引き入れていくのです。ある地域の婦人にこのようなことを訴えて、あなたも一緒に反対運動をやりましょう。いや、私はそのようなこと、やりたくありませんと言おうものなら、その婦人は自分だけが知らないだけで囲りから村八分にされることは必然であります。あの人はお化粧をして美しい顔つきをしているのだけれど、あれは顔だけで心は鬼みたいだそうだ。人道主義もわきまえないで戦争反対もしない。自分の家のことだけをしている。
あんなエゴイストはいるだろうか。このように村八分にされることは必定だから、村八分いやさに、名前だけでも連れておこうかというようになります。
このようにして、団地を初めとして会社、あらゆる職場、学校の職員において、このようなことが行われています。人道主義、ヒューマニズムという言葉にごまかされて、それをしなければあいつは人道主義じゃない、ヒューマニズムじゃないと言われる。こんなことを言われるのはいやだと思っていると、いつとはなしに運動に入っていってしまう。この一番の被害者は若者、大学生たちであります。若者たちこそ、大学生こそあまりにも美しい言葉に弱い。故に、ヒューマニズムというこの甘い言葉、人道主義という身震いするような美しい言葉には、もう前後をわきまえずに立ち上がっていくのです。さあ、ヒューマニズムを中心として我々はこういう運動をしよう。そう言い出すと、学生たちは身震いしながらこれに雪崩をうって突き進んでいくのです。その結果がこれなのですが、そういったことは分らない。このようにヒューマニズム・人道主義にごまかされ続けながら、国民はだんだん深みに入っていってしまうのです。

理念、思想なき者は既に負けている

すでに御承知のことと思いますが、これを解決するのは教育、思想教育とは何であるかということだと思います。彼らが狂信的な、宗教的情熱を現わすその具体的な例は、なんといっても選挙の時であります。街頭にでていますと、そういうことはよく分ります。民青を頂点として、共産主義の若者たちは選挙の時期になりますと、雪が降ろうと雨が降ろうとビラを張りパンフレットを配る。こういう活動が街頭で延々と続くのを見て、自民党の諸先生方は、これは大変だ、我々も負けてはおられないということで、アルバイトの学生を沢山雇う。理念のない者がいくらそのようなことをやったとしても、瞬間的な情熱は出るかも知れませんが、永続的な情熱は出るはずがありません。私たちも街頭でよく活動していますから、末端の行動状況はよく分ります。
確かに何百名かのアルバイト学生を雇い、彼らは候補者のビラをかかえ、その選挙事務所を飛び出していくけれども、やがて私たちがよく見ているとビラをまいている場所に民青その他の人々がやってきて、彼らを取巻き始める。ざあっと取囲まれていく。そして、“なんだお前は、若者のくせに前近代的な自民党なんか応援して、お前は若者として恥しくないのか”と、こう言われます。そう言われると、候補者のビラを持った若者はやがて、ああ、これは恥しいことなのだと思ってしまうようになる。こういうことで、持っていたビラをどぶに捨て、ゴミだめに捨ててしまう。そして、何食わぬ顔で選挙事務所に帰ってきて、金を貰いどこに行くとも告げずに、一人去り二人去って行く。
極端な例ですけれども、大阪である参議院の補欠選挙の時、三百名ほどのアルバイト学生が雇われました。その選挙運動員たちは、終盤戦になるとたった二十数名に減ってしまって、後はどこに行ったのか分らないのです。
金の切れ目は縁の切れ目。思想がない者、理念がない者に、永続的な力が湧いてくるはずがありません。永続的な執念を持ち、間違ったなりに彼らには唯物論という、そして又唯物史観という人生観,世界観・歴史観があります。彼らはこれを基盤として狂信的な行動にでてきます。かねやものでそれに対抗しようとしても駄目なのです。

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