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考えるのは苦しいから

何か用事をしているときに
話しかけられると苛つきを覚えます。

仕事に集中しているときに
緊急の依頼が入るとストレスがかかります。

たぶん、わたしは感じているのです。
「考えさせないで」と。

考えるというのは、ひどく骨の折れる行為です。

たとえば、ただA地点からB地点にものを運ぶだけなら訳はない。
けれどもあとからC地点に運ぶために最も効率のよい置き方をしないといけない、という条件が加わると途端に手が止まります。

考えないといけないからです。

あるいは、新しい仕事や生活を始めたとき、最初は大変です。
でも徐々に慣れてくると楽になってきて、難なくこなせるようになってきます。

いちいち考えずとも動けるようになるからです。

考えるのは、ひどく労力がかかることなのです。

だから、なのでしょうか。

わたしたちが親に、家族に、会社に、国に頼ってしまうのは。
友だちや、YouTuberや、ハウツー本や、教祖の言うことを鵜呑みにしてしまうのは。

だって、代わりに考えてもらったら楽だから。
ただ従っているだけなら、自分の頭で考えなくてもいいから。

***

わたしは、過干渉の親に育てられました。
目一杯の愛情を一身に受ける代わり、全く自由がありませんでした。

すべての正解は母の中にあって、そこから外れた考えを持ったり行動をしたりすると否定されました。

なんでわかってくれないの
こんなに大事に思っているのに
昔は素直ないい子だったじゃない
そんな子に育てた覚えはない

…窮屈でした。
でも、今思えば、母の世界に沈んで一才の判断を母に委ねていたあの日々は、ある意味で心地よく、楽でした。
長い間、なにかおかしい、しんどいと思いながらも鎖を断ち切ることが出来なかったのはたぶん、その独特の心地よさ故だと思うのです。

結婚して、母の呪縛からやや離れたとき、わたしはしばし安定を失いました。
自由だ、と思うと同時に1人荒野に取り残されたような気分になりました。

自分のことを自分で決めるのに慣れていないから、決断を迫られる度に強いストレスを感じていました。

誰か決めてくれないかな
わたしはなんでもいいんだけどな

母から離れて約10年、
わたしはまだ、決断のリハビリ中です。

今日、何を食べたいか
週末はどこへ行きたいか
どうやって過ごすか

そんなことを決めるのが
本当は今も、少ししんどい。

でも、自分で考えて決める権利を
手放してはいけない気がするのです。

あのときの楽なわたしに
戻ってはいけないと思うのです。

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