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答えは「ある」ものなのか、それとも。

答えはあなたの中にある(つまり自分の中にある)というのは、確かになぁ、と思う一方で、不足感を覚えていた。

どことなく万能感があるけれど、表面だけをなぞって、まともに自分を見つめてばかりいると、訳が分からなくなってしまう。

答えが自分の中にあるというのは、自分の中にあるから出せる(又は何かの拍子に出てくる)のであって、元々自分の中に無なければ、出すことは出来ない。シンプルな話で、出せるものが無いから。

自分の中に無いものは、そもそも答えにはならない?いやいや、そんなはずない。

単に今その時に知らない・無いだけであって、知れば「まさにこれ」という答えになる可能性は十分にある。

他者が答えを決めてくれるわけじゃない、という意味ではその通りだけど、それにしても、無い所で探し続けても、無いものは無い。

「どうしたいのかという気持は、自分の中にしか無い」という話も、それはその通りだけど、それとて、答えは自分の中にあるのだと文字面だけをなぞっていると、煮詰まってしまう。

知らないことは、頭であろうと、心であろうと、浮かばない。浮かばないものは、引き出せない。

いくつになっても、知らないことや、まだ見ぬ概念みたいなものは、きっとたくさんあるもの。

今年も各地で咲いたであろう金木犀。寒さに弱いそうで、育つ地域に北限がある。もしかしたら、金木犀という存在自体を知らない方もいるかもしれないし、名前は知っていてもどんな花かは分からない方もいるだろうし、写真で見たことがあったとしても、香りを知らない方は多いかもしれない。

知らないものはイメージ出来ないし、そもそもイメージするという発想さえ起きない。そこに存在していても目が留まらず、香りもスルーしてしまうかもしれない。知らないと「金木犀だ」と内側からは出てこない。

答えはあなたの(自分の)中にある、という表現の、私の中でのしっくりこない感覚というのは、例えて言うならそういうことだ。

その言葉が間違いだと思わない。でも万能じゃない。だから、その言葉につまづかないようにしたい。

自分の中に確かに”ある”を感じながらも、輪郭をハッキリさせられない場合だって、答えは内側から絞り出すいうより、ひょんなことで引っ張り出される感覚のほうが多い。

何で知るか、どこで見つかるか、何に引っ張り出されるかは分からないけれど、少なくとも自分と向き合ってばかりいると、その感覚を得ることは難しい。

答えは、どこにでもいっぱい転がってるんだ。まぁ、だから迷ったり分からなくなったりするわけだけど。何度も何度もそんな経験はしてきたし、そんな時、答えはあなたの中にある、という言葉に我に返ることは、確かにあった。

それでも、「自分の答え」が「ある」と思うと、「どれだろう」と考え続けてしまうだけだった。いわゆる、頭の中がぐるぐるするという状態に陥るだけだった。

「ある」にとらわれる必要はない。

答えは、どこにでもいっぱい転がってる。
「自分の答え」は、見つけたり、創ったり、決めるもの。或いは、色んなモノ・コト・ヒトによってポロっと引き出され、「これだったんだ!」と「知るのもの」だ。

私はこっちのほうが、しっくりくるな。

※そういえば。今日のnote、以前書いた、意識の方向性の話に通じるかも。

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