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葬送のフリーレン オレオールと魔王城の謎

前回の考察でフリーレンは"現実とイメージの境界がない世界"を一つの要素としてとり入れたSFファンタジーと考察しました。それは荘子の説話"胡蝶の夢"を軸に展開できます。
どういった世界かと言うと、我々の世界に物理法則があるように、イメージと現実が等しいという法則が根底あるということです。
つまりはイメージした事が何でも現実になるという夢の様な世界です。ただし、自由にはいきません。そこには人類である以上"境界"を作ってしまうという制約を設けています。
その現実とイメージの境界を少し動かして、イメージを現実側に具現化することを魔法と呼んでいると定義しました。

この前提で考えると色々見えてきます。まずは前回の振り返りです。前の記事は少し複雑になり過ぎたのでもっと話を単純化していきます。


ゼーリエの魔力のゆらぎが見えないのは?


フリーレンのように魔力制限が卓越しているわけではなく、みんなが認識している現実やイメージの外にまで境界を広げているから、ゼーリエのゆらぎは見えないのだと捉えられます。これが魔法の高みです。
ゼーリエはフリーレンの魔力制限を効率悪いと批判しているし、性格的に単純なマネもやらなそうです。
その直前でのフリーレンの複製体戦闘の中で、フェルンが見えない魔法を使った点もつながっているかと。フェルンはそれに触れて魔法の高みを知ったことで、ゼーリエのゆらぎも見えるようになったのだと推察します。

ユーベルとラントの関係は?

境界の話で言うとユーベルは他者との境界が欠落している人で、ラントは逆に自分自身の中にまで境界を持ってる人だと捉えられます。
ユーベルは他者との境界が欠落しているため、共感するだけで同じ魔法が使える様になるのに対して、ラントは自分の魔法を分身と言ってますが、どちらかと言うとあれは理想像の具現化であって、自分自身は分厚い境界の奥に引きこもっているのかと考察します。もしかしたらラント本体は普通の魔法さえ上手く使えないかも?という設定も面白いかと思いました。魔法にはどこかに制約がつく様なので。

  • 現実とイメージの境界(メイン)

  • 自己と他者の境界(サブ)

  • 内か外かの境界(サブ)

  • 過去と未来の境界(サブ)

  • 生と死の境界(サブ)

このような、メインの境界以外にも人間の価値観の根源に触れるテーマについて色々書かれていて、そこにある境界を我々の直感とはあえてずらした角度で動かしたり作ったりする事が作品を読むポイントとして捉えると、漫画を更に面白く読めると感じました。

それでは本題に入ります。
一巻のラスト見開きページで「死者と対話できる地オレオールと魔王城がなぜ同じ場所にあるのか?」という最大の謎が提示されます。

オレオールに魔王城がある謎

1.神話の時代が人間の登場で終焉


そもそも、1000年前フランメがオレオールを見つけた時には魔王城もなかったようなので、オレオールが発見された後に魔王城を建てたと捉えるのが自然です。

もっと時間を遡ります。魔王とか女神様とか竜族がいたとされる神話の時代から考えてみます。そもそも、フリーレンやフェルンがいる今の時代と神話の時代は何が違ったのでしょう?
それは人間が表舞台に現れた事だと考えられます。宗教的か進化論的か、どのように人間が現れたのかはわかりませんが、とにかく人間の登場で神話の時代は終焉を迎え始めます。所々に出てくる統一王朝時代というのはその中間の時期で、まだイメージと現実の境界が今ほどはっきりしていない"魔法がもっと自由だった時代"なのでしょう。

神話の時代こそが、先に提示した本来の意味での"現実とイメージに境界のない世界"であったのだと思います。まさにそこには生と死の境界もなかったのです。
魂が輪廻して、生死は寝て起きるくらいのものであったかもしれないし、そもそも生や死がなかったのかもしれません。人間の価値観や言葉がもたらしたものが"境界"だったのです。

一度現れた境界を取り去ることは簡単にはできません。言葉の性質を例にすると、"言葉そのものがあらゆるものに境界を生んでいる"とも捉えられます。
あかちゃんは自分の名前を知り、他者と自分の境界を作ります。ママパパを知り、家族と他者の境界を作ります。自分の感情にも喜怒哀楽の名前が付けられ、死を知れば、恐怖を知り、逆に生きる喜びも知り…正義を知れば、悪を知り…多くを言葉なしでは考えられなくなっていった頃には、もうあらゆる物が境界で整理されて認知されることになります。単語の数だけ境界があります。

人間がもたらした価値観や言葉によって、"現実とイメージに境界がなかった世界"に、境界が次々と現れたのです。1を知った世界はすぐさま2と3を知り、加速度的に複雑になり、それは人間だけでなく神話の時代から存在していた、魔王も女神様もゼーリエもそれらに巻き込まれていったと想像します。

2.あの世は女神、この世は魔王に


神話の時代は生と死の概念もなかったのですから、エルフ族はその時代からいた種族で、今も永遠に等しい寿命をもっているのでしょう。ただし、寿命以外の死がある現実からは逃れられなくなってしまいました。

この様に生と死の境界をもたらした事に続いて、死後の世界までイメージをする人間たちが自ら救済として生み出したのがオレオールなのではと考えてみます。北の厳しい大地の先には天国があると信じて。1500年前頃、女神信仰が始まってまもなくオレオールが出来始めたのではないでしょうか。

そして信仰の対象となる女神様は、死後の世界の神様として追いやられてしまったのではと想像します。又は女神様は自ら望んで天国の方へ行ったのかもしれないですが。
救済の女神が天国に、この世には厄災の魔王が残るといった形がこの世の摂理だとも思えます。

そこで次は魔王の話です。女神様が人間にとっての善=救済の象徴になった様に、魔王は人間にとっての悪=厄災の象徴になったと考えてみます。善悪の概念がない神話の時代は、厄災と救済はどちらも季節の様にめぐるもので、均衡がとれていたのだと思います。
それが人間にとっての善悪に繋がった時、人間にとっての悪を滅ぼす、人間にとっての正義を守るという価値観による偏りが現れました。

魔王は役割としての厄災であって、もともと厄災と救済は均衡であるべきだと考えていると仮定します。人間を完全に滅ぼしたいわけではなく、あくまで均衡=共存を願っていたのだと。"共存を願っていた魔族は、マハトと魔王くらいだ"とソリテールが語っていました。
魔王は初期には人間を家畜以下とみなしていたのかもしれません。食料が滅びても困るわけで。その家畜の事をよりよく知り、均衡を取り戻すため魔族を作り出したのだと思います。
神話の時代には、動物と魔物というくらいの存在しかいなかったとすると、動物の中に人間があらわれて、均衡のため魔物の中に魔族が作られたという構造です。

3.人間を知るための魔族の登場


魔族は人間に模して作られ、言葉を話し、心を持ちます。ただ心の中の境界に違いがある様です。主にな違いは作中に書かれている内容からすると、家族という概念がなかったり、悪や罪悪感という概念もないとのことです。
その概念がない理由としてソリテールが"人間を殺すことに心を痛めていたら、魔族はとうの昔に絶滅していた"と言います。実はこれ、人間に対する皮肉も入っていると思います。人間は悪や罪悪感がわかるのに、他の動物を食べるわけですから。人間の正義と悪の境界なんてものは、人間にしかわからないし、更に人それぞれ違うものです。
人それぞれ違うものとして、他にも好き嫌い等がありますが、基本的には好き嫌いは人や周りに強制しません。個人の中で完結する問題で、好き嫌いの違いで集団的な争いの元になる事はあまりないと思います。
以上の通り、正義や悪という価値観は社会的な性質を持っており、もちろん家族という概念も社会的な性質を持っています。

社会性を持つ人間に対して、魔族は魔王が支配する単純な弱肉強食の世界で、社会性がみられない様に描かれています。みんなが個人最優先で、上位の魔族に従うのは殺されないため等の単純な損得勘定であり、自己の世界で完結しています。

4.魔王の誤算とオレオールに籠った理由


魔族に社会性がない理由はいろいろ仮定できますが、例えば…
・そもそも社会性という概念がない魔王には、社会性を持たせた魔族を作れなかった。
・社会性を持たすと争いの原因になると負の面しか見ずに魔族には与えなかった(謀反を恐れた)

今の所その理由までは考察の根拠がないのでわかりませんが、魔族の社会性が乏しいというのは、色々描写されています。
アウラは"死んだヒンメルの言葉を守る意味あるの?"的な問いを純粋に聞いてくる点も、社会性の欠如から来ているとも捉えられます。
魔王は、個々が脅威となりうるエルフを根絶やしにしろという判断を1000年前にしているところからも、個々が弱い人間を甘くみていたのかも知れません。そして気づいた時にはもう人間が幾度か世代交代を重ね力を付け出していて、だけれど魔王にはそれがなぜなのか?が理解できなく、そこで人間をもっと知るために、魂が集まるオレオールに魔王城を作ったのだと考察します。

フリーレンが人の心を知る旅に出たのと同じく、魔王は人の心を知るためにオレオールに魔王城を建てたという構造です。そして魔族と人間の戦争によって大量の魂がオレオールに集まってくるようにしむけました。これが"現実とイメージに境界のない世界"を前提に置いた時の最大の謎の解答例となると思います。 


5.オレオールに魔王城がある理由part2


もう一つ別の解答例もあげてみます。
単純に神話の時代の様な境界のない世界がもう北の地の果てオレオールにしか残っていないので、仕方なくそこに追いやられたという説です。
人間がイメージして構築してきた現実では、魔王は力を昔の様に発揮できず、人間がまだあまり踏み入れていない地でなんとか籠城戦を行っていたという解釈もできるかもしれません。オレオールさえ残っていれば魂が輪廻して何度でも復活できようと。しかし、そうだとするとこのまま人間の発展が進めばオレオールも消えて、神話の時代はもう存在しなくなり、やがて今魔法と呼ばれているものも次第に絶える結末に繋がるのでしょう。

私個人は前者の解答例の方が好みです。フェルンやこの先に続く魔法使いの未来がないのは寂しいので。

6.まとめ

神話の時代は現実とイメージに境界のない世界でしたが、ある日人間が現れ、これまでなかった価値観や言葉で、境界を引き出して世界を変えていきました。一人一人は弱い人間がどうして世界に影響力を持つのか?その理由を知りたい魔王は人間に似せた魔族まで作り、オレオールに魔王城を建て、世界の均衡を取り戻そうとしました。
しかし、悪の概念を持たない魔王自身は、"人間にお前は悪だ"と定義されても、それがどれだけの脅威になるのか想定できずに滅ぼされました。
身近なものが殺されたり、仲間が殺された歴史全てを背負って向かってくるフリーレン含む人間たち執念の根源は、社会性をもたない完全個人主義の魔族には全く理解できなかったのでしょう。
クヴァールのゾルトラークの研究エピソード然り、人類の執念が歴史を紡ぎ重厚なテーマをもたらしています。

そして魔王討伐後という悪が滅びて人間の正義を謳歌する時代が来たはずなのに、それは神話の時代からの流れで見れば、夢物語の世界の終焉の一部でしかないという点が、作中に漂うノスタルジーの根源なのかもしれません。神話の時代の影響が残っているエルフたちも、紛い物として作られた魔族たちも、その流れには逆らえずやがて終焉を迎えていきます。

ただ、人間の心や価値観を知っていけば死が全ての終わりではないことも知ります。誰かが生きた証を語り継いでゆけば永遠であり、そもそも、誰にも語り継がれなくても大切な人と過ごしたことこそが大事なんだ"ということを、ヒンメルとの旅をきっかけに知っていくフリーレンとっては、終焉だとしても決して悲観的なことではなく、自らの人生の価値を再発見していく幸せに満ちた日々をこれから送っていくのでしょう。

【仮説】終極の聖女トートの呪いは信仰心



以上が12巻までを読んで組み立てた考察となります。ただし、12巻を読むと終極の聖女トートという存在が現れて、実は後者の解答例にも近い面があるのではと感じました。

魔王は最後の神話の時代の砦となっているオレオールが無くなってしまわない様な対策を打っています。それが終極の聖女トートの呪いです。後十数年で地上全体を呪いに染められると宣言していました。その呪いとは"天国を信じる心"です。宗教とか信仰心を掴み、一つに向かわせる事こそが、呪いだという仮説です。本来宗教や思想は自由であるのに対し、天国は唯一だとして、イメージを強制してしまったら、強制的な魔法にかけられた=呪いともとれるんじゃないかと。
みんなが天国を信じる様になると、そのイメージの力で全ての魂がオレオールに集まることになります。"オレオールで魔王が行っていた何か"が実はまだ続いているのかも知れないし、もしかしたらオレオールでは境界のない世界が復権しているのかもしれません。そして魔王も死んだことにより、天国で厄災と救済の輪廻がまた復活して、魂だけになった人間は神話の時代と同じ様に、ほぼ力を持たない支配される側の存在になっているとか…。ただただ天国の幸福に浸る事で人間は満たされてしまっているとか…。
呪いと言いながら、天国に必ず行ける事が人間にとって良いか悪いか微妙なとこですが、強制されるとなるとやはり自由がない=悪といったものになるのでしょうかね。また死後の世界を信じて、人間が死を恐れなくなれば、実は生と死の境界も薄れて神話の時代に回帰していけるとか…。
実は女神様も魔王と同じ側で人間vs神々の構造になっているとか…。
ここらへんを描いたらまた面白そうな事になりそうです。人間と魔族に社会性の対比があるとしたら、宗教や信仰問題は回避できないかと。だけれどそこに少しずらしを入れてくると思うので、そこが楽しみです。
何の情報も出ていないの中、数行の台詞から読み解いておりほとんど妄想ですが、新しく登場した終極の聖女トートについて考察してみました。

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