短編|向日葵と銃弾【最終話】
ボグダーンの最後に放った言葉がどんな意味だったのか、今となっては誰にもわからない。しかし、フョードルはその言葉を何度も反芻しながら、冷たくなってゆくボグダーンを背負い、太陽が沈み始めた街路を進んでいた。
ボグダーンは向日葵の花が好きだった。なぜ好きなのか、どんなところが好きなのか、知らないし聞いたこともない。だが、フョードルに用意される部屋には、たまに向日葵にまつわるものが置かれていたのだ。花そのものが置かれていることもあったが、フョードルが一度枯らしてからは置かれたことはない。そういえば、最後に使った部屋には向日葵の絵画があったなとフョードルは思い出す。
「あなたは、最後までわからない人だったよ」
ボグダーンが出てきたということは、恐らくレーナへ殺し屋が差し向けられることはもうないだろう。マルガヤ商会の娘の殺害依頼が、十二人の殺し屋の撃退と、伝説の殺し屋の死亡という結末を迎えさせたのだ。依頼主は、マルガヤ商会をライバル視している商会の人物だそうだが、もう一度以来を受ける仲介人が現れる可能性が低い。もし現れたとしても、以前の十倍以上は金額が跳ね上がることは確定なので、そもそも依頼することが困難になっている状況だろう。
限界をとうに超えていたフョードルの体は現在、気力だけで足を動かし、以前場所を聞いたことがある、向日葵畑を目指していた。
安堵感と喪失感が同時に襲い掛かったフョードルは、ほぼ意識のない状態だ。ボグダーンと戦っていた時に感じていた痛みさえ、今はもう感じなくなっている。
行き交う人々が、黒い靄に見え、フョードルは自身の脳が正常に機能していないことを辛うじて自覚する。そのまま、無意識にただただ歩き続けた。
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向日葵畑にたどり着けたことは、奇跡といっていいだろう。フョードルには、道程の記憶が全く残っていなかったからだ。
「ほら、あなたの好きな向日葵だ」
ボグダーンを向日葵畑の傍らに寝かせて、フョードル自身もその場に倒れこんだ。
レーナのこれからの人生に想いを馳せ、幸せになって欲しいと心の底から願う。フョードルの、死んだように生きてきた人生にも意味があったのだと、嬉しくなる。
レーナの姿を思い浮かべて、少し口角が上がった。あっちからしたら、一度会っただけの男にここまで想われることは気持ちが悪いかもしれない。しかし、もうすぐこの世から消えるので許してほしいと、フョードルは心の中で呟いた。
徐々に眠気がフョードルを襲う。一度眠ってしまえば二度と戻ってこられなくなる、片道切符の誘惑だ。
視界が真っ暗になり、ふわりと宙に浮くような感覚がフョードルに訪れる。初めて経験する、命の終わる感覚。
しかし、その感覚は一人の少女によって止められた。
「あなた、酷い怪我だわ。……まだ、息があるわね。リチャード! こっちにきてちょうだい」
まるで遠くの場所から語り掛けられているように脳を響かせる声。その声はどこかで聞いたことがある、美しい声音だ。
神が最後に与えてくれた褒美の幻聴だと感じ、フョードルは心地の良い空間の中で意識を失った。
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「ここは……天国なのか?」
水面から顔を上げたような感覚がフョードルを襲い、意識が徐々に覚醒する。視界に映るのは知らない天井であり、情報の処理が追いつかない。
「天国に見えるかしら?」
近くから聞こえた声に、フョードルは現実へと引き戻される。
「……」
声が聞こえる方向に目を向けると、予想外な人物の姿がそこにはあった。初めて見た時と変わらない美しさを放つその少女は、フョードルが恋焦がれていたレーナだ。ベットに横たわるフョードルの傍に車椅子で腰かけて、微笑んでいる。
「動かないほうがいいわ、医師が言うには生きてるのが奇跡だって」
「レーナさん、あなたが助けてくれたんですね」
ボグダーンを連れて向日葵畑に辛うじて到着してからの記憶が全くなく、完全に死んだものだと思っていたが、レーナに命を救われたようだ。
「お気に入りの向日葵畑に行ったら、倒れてるあなた達を見つけたの。でも……」
最後を濁した言い方をするレーナが何を言いたいのか、それに気づいたフョードルは、ベットから上半身を起こしてレーナの言葉の先を続けた。
「ボグダーンはすでに息をしてませんでした。気に病まないでください」
恐らく、ボグダーンさえも救おうと動いてくれたのだと思うが、フョードルの意識があるときには心臓が完全に停止していたので、不可能なことだったのだろう。
「もう一人の方は残念だったけど、あなただけでも救えてよかったわ。あのまま死なれたら、お礼も言うことができなかったもの」
「僕を、知っているんですか?」
まるでフョードルのことを知っているかのような口ぶりのレーナに、疑問を感じる。フョードルとレーナの邂逅は、最初に出会った夜の一度きりであり、それ以外知りえる瞬間はなかったはずだ。
「わたしの執事であるリチャードが、たまたま殺し屋と戦っているあなたを見かけたのよ。それに、街中で噂になっていたわ、殺し屋を狩り続ける謎の人物が」
確かに、あれほど派手に立ち回っていれば噂にもなるだろうとフョードルは反省する。そもそも、周りを気にするほどの余裕がなかったというのが本音ではあるが。
「わたしが狙われていたことも後から知ったわ。あなたが守ってくれていたのね」
ただ、愛する人を、レーナを守りたくて奮闘してきたフョードルにとって、目の前に彼女が存在していること自体が歓喜すべきことだ。
「あなたが生きていてくれて良かった。本当に……良かった」
フョードルの目から大粒の雫が溢れ出し、ベットのシーツに雨を降らせる。レーナを守れた事実の嬉しさが遅れてやってきて、感情が追いつかない。
「あなたの名前を教えてくれない? 命を守ってくれたのに、あなたの名前をまだ知らなくて」
「僕の名前はフョードル、元殺し屋の穢れた人間です」
「じゃあフョードル、あなたに一つお願いがあります」
レーナは真剣な顔つきでフョードルを見つめる。その表情と空気感にフョードルの心臓も高鳴る。この表情一つだけでレーナの商才が感じられるほどだ。
「は、はい」
「わたしの護衛にならない?」
レーナを守り切ったら、命を絶とうと思っていた。今まで犯した罪に責任を取ることが自分の贖罪であると考えていたのだ。そんなフョードルにとって、この提案は受け入れがたい。しかし、戦いを通して命を絶つことだけが贖罪でないことにも気付かされたのだ。助力してくれたスカラーにもお礼を言わなければいけないし、ボグダーンの墓だって作ってあげたい。
「僕は、穢れた人間だ。今までたくさんの人を殺してきた。きっと生きていてはいけない人間なんだ」
「そんなことはないわ」
俯き、か細い声で話すフョードルに、レーナが強い口調で否定を示す。
「あなたが守ってくれなかったら、わたしは殺されていた。人を殺してきたのも事実だけど、人を守った事も間違いない事実よ。それに、変われない人間なんていない。撃退していた殺し屋たちが一人も命を落としていないのがその証拠じゃない」
「――――」
熱のこもったレーナの言葉に、フョードルは胸の奥で何かが熱くなっていくのを感じる。初めて出会った自分を肯定してくれる存在がいることに感動し、再度涙が零れる。
「マルガヤ商会はこれから市場の中心になるわ。腕利きの護衛がいたほうが安心できるもの。あなたの人生、捨てるぐらいならわたしに捧げなさい」
まるで逆プロポーズのようなセリフを放つレーナは、商人としてかなり優れていると有名だ。なので、この話は誇張などではなく事実なのだろう。真っ直ぐ見つめるレーナの目は真剣そのもので、瞳に光が宿っている。
フョードルはレーナと視線を合わせ、決意する。大切な人を守り抜くことに人生を捧げることを。
「もう一度聞くわ、フョードル。あなた、わたしの護衛にならない?」
「僕は――――」
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