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瞼の裏に見える世界【5話】

 土曜日当日、空を見上げると天気予報通りの快晴が圭人の目に入る。

 扉が勢いよく開き、段差に気を付けながら電車を降りる。ホームから出て改札を抜けると、すぐのところにあるベンチに腰を下ろした。ふと、ポケットに入れていたスマホを取り出す。

 集合時間は十五時だが、スマホの時刻は十四時四十五分を指している。一応、律花とは連絡先を交換していたので、集合時間と集合場所は昨日の夜に電話で決めた。スマホでゲームでもして時間を潰そうかと考えていると、ちょうどよく着信音を知らせるバイブレーションが伝わってきた。画面には『北川律花からの着信』と表示されている。

「もしもし圭人? ごめん。少し遅れちゃってて、次の電車に乗るから着くの十五時過ぎると思う」

「わかった。昨日話した場所で待ってるから」

「うん。できるだけ急いで行くね」

 急いで行く。その言葉を聞いた途端に、圭人の中で明日香の事故の記憶がよみがえる。

「急がなくていい!」

 無意識に声が大きくなり、駅にいる人たちから奇異の目線で見られる。電話相手である律花も困惑しているのが伝わってきた。

「あ、いや、ごめん。次の電車に間に合わなくても大丈夫だから。ゆっくり来てくれ」

「うん。ありがとう」

 電話を切った圭人は、顔を両手で抑えながら後悔する。自分のトラウマと律花は関係がないのに、つい強い口調になってしまった。変に思われていないことを願い、律花が到着するのを待った。


 スマホの時刻は十五時を指していた。ちょうど、律花が乗ると言っていた電車が到着したようで、人通りが多くなっている。その中から律花の姿を探すが、なかなか見つからない。白杖を持っており、目立つはずなのですぐ見つかると思っていたが、的が外れたようだ。

 少し経って、人通りが落ち着いてきたが、律花の姿はどこにも見当たらない。もう一つ後ろの電車に乗ったのかもしれないと思い、圭人は大人しく待つことにした。

 ――十五時四十五分。

 さすがにおかしいと思い、ベンチから腰を上げて動き出す。

 あれから、律花が乗って来ることができる電車が二本も到着している。しかし、律花の姿はどこにもない。いくらゆっくり来るといっても、心配になる遅さだ。何度も電話をかけてはいるが、一向に繋がらない。初めは電車に乗っていて繋がらないのだろうと圭人は考えていたが、ここまでくるとその可能性は低そうだ。

 時刻表を確認して切符を購入する。足早に駅のホームへ繋がる階段を駆け上がった。

 ホームに出ると、雨の音が煩いほどに響いている。今まで気づかなかったことが不思議なほどの豪雨がやってきていた。

「天気予報は晴れだったはず」

 圭人の嫌な予感はさらに強まる。律花が来る方向に向かう電車がちょうどあったので、扉が閉まる前に、滑り込むようにして乗車する。

 律花の最寄り駅はここから三駅離れた場所だ。後ろに引かれるような重力を感じて、電車は発進した。これほどまでに電車のスピードが遅いと感じたのは初めてのことだ。一番早く下りられる扉の前で大人しく待機しているが、何もしていないと最悪の想像――明日香の時と同じような結末を想像してしまう。

「考えるな考えるな考えるな考えるな考えるな」

 圭人は自分の心を落ち着かせるように呼吸を整える。律花は大丈夫だと信じることしかできない自分が不甲斐ない。

 気の遠くなるような時間が経ち、扉が開くと同時に圭人は駅のホームへと飛び出す。もしかしたらまだ電車に乗っていなくてホームにいるのかもしれないという希望的観測は、一瞥しただけで潰える。

「目の見えない高校生の女の子を駅で見ませんでしたか!?」

 できる限り駅の隅々まで見渡したが、律花はどこにもいない。荒い息遣いのまま勢いよく駅員室にいた駅員に問いかけた。

「いえ、恐らく来てないと思いますが――」

「もし彼女を見かけたら、この番号に電話してください!」

 カウンターに置かれているポスターの裏に携帯番号を殴り書きして渡す。そのまま返答も聞かずに駅を後にした。

「ったく、どこにいるんだよ」

 駅を出ても右と左どちらに行けば良いのか、圭人には見当もつかない。空から大粒の雨が降り注ぎ、全身を重たくする。何度も電話をかけ続けているが、繋がらなかった際に流れる自動音声すら雨が地に落ちる音でかき消される。

「くそっ!」

 それから圭人は走り続けた。通りすがりの人や、点在する店の人に話を聞くが、簡単に情報が得られるはずもない。自然と目から大粒の涙が、頬を伝い雨と一緒に流れ落ちる。

 視界はぼやけ、叫び声も雨に吸い込まれる。絶望しかけたその時、遠くに何かが落ちているのが辛うじて視界に映り込んだ。圭人は走り続けて限界に達しているはずの足を再起し、その何かへ近づいていく。

「スマホ……」

 それは、いつも律花が使用していたスマホだった。彼女はボイスオーバーという音声で操作する機能を使うことが多く、よく顔の近くで使っていた。そのため、特徴的なピンクのスマホケースを覚えていた。スマホを拾い上げると、すぐに辺りを見渡す。すぐ目の前に大きな公園があり、一縷の望みにすがり足を踏み入れる。

 公園の中には人の気配が全くしない。しかし、人が入れそうな場所が一か所だけあることを発見する。正式名称は知らないが、コンクリートの山に穴が開いている遊具だ。圭人は子どもの頃『石の山』と呼んで遊んでいた。すぐに近づいて、急いで中を覗き込む。

「やっと見つかった」

「けいと……?」

 体を震わせ、涙で顔をぐちゃぐちゃにした律花。圭人のいる方へゆっくりと手を伸ばす。

「ごめんなさい。ごめんなさい。お父さん、お母さんごめんなさい」

「俺はおとうさ――」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 異変を感じ、伸ばしてきていた律花の手を握る。すると、体の震えが直接伝わってきた。

「落ち着け、北川。俺だ」

 パニック状態に陥っている彼女の手を強く握り、語りかける。

「わたしが、わたしのせいで」

 律花は頭を抱えて下を向く。圭人のことも完全には理解していない様子だ。圭人は一度握った手を放し、両手で彼女の頬を包み込み正面を向かせた。 

「俺はここにいる。大丈夫。もう、大丈夫だ」

「けい……と」

 律花はか細い声で名前を呼び、そのまま倒れこむように圭人に抱きつくと、赤子のように泣き始めた。彼女の身体は冷たくて、震えていた。無言で受け入れて、自分の体温を分け与えるように抱きしめる。

 大粒の雨と涙が降りやむまで彼女の背中を優しくさすり続けた。


 気づけば雨が大人しくなり、音が聞こえやすくなっている。

「わたしね、雨が怖いの」

 圭人の手を強く握りしめながら、律花は決意のこもった表情で話し始める。

「小学三年生の時の交通事故。家族で予定してたピクニックが雨で中止になっちゃってね。わたし一人っ子だから特にわがままで、かわりに水族館に連れて行ってって駄々こねてさ。物凄い豪雨の中、隣の県の水族館まで行く途中で雨と風にハンドルを取られたトラックに突っ込まれて。お父さんとお母さんは前の座席にいたから即死だったって」

「北川……」

「覚えてるのは真っ暗な視界と、雨音にかき消される自分の泣き声だけ……」

 鼻をすすりながら、律花は静かに過去のトラウマを語る。過酷な環境で生きてきたはずなのに、普段の態度からは全く感じ取れなかったと圭人は素直に尊敬する。勝手に腐っていた自分とは大違いだ。

 彼女がどれほどの想いを抱えて生きてきたのか、圭人には計り知れない。

「圭人の手すべすべだね」

「え?」

 脈絡のない律花の言葉に驚き、疑問の声を発する。

「圭人は、もうピアノ弾かないの?」

「今そんなこと――」

 関係ない。と言おうとしたが、津花の真剣な表情を見て言葉を止める。

「初めて会った時から思ってた。圭人、ピアノ好きなんでしょ? ほんとはピアノを弾きたいんじゃない?」

 圭人は律花と会ったばかりの頃、なぜ彼女のことが苦手だったのかを今になって自覚する。何も見えていないはずなのに、彼女の瞳はすべてを見透かしている。そんな気がしたのだ。

「俺が小学五年生の時のコンクールに来る途中、遅れて来てた姉さんが車に轢かれたんだ。

「高校の部活があって来れないって言われたのに、姉さんにどうしても来てほしくて頼み込んで。もしかしたら終わって急いでくれば俺の番に間に合うかもって。コンクールの本番が終わってステージを出たら、両親がわけわかんないくらい泣いてて、すぐに病院に連れていかれた」

 圭人の中でその時の記憶が鮮明によみがえる。生きていると思えないほど、顔が蒼白になってベッドに横たわっている明日香。それを見て泣き崩れる両親。

「何度も思った。ピアノなんて弾きたいって最初から思わなかったら、こんなことにはならなかったのにって」

 今度は圭人の方が握る手に力が入る。

「姉さんだって、ほんとは俺のこと恨んでると思う」

「それは違うよ。圭人」

 盲目の瞳で圭人の瞳をまっすぐに見つめて、律花は強く否定した。

「北川になにが――」

「わかるよ。明日香さんが圭人のピアノのこと話す時、いつも楽しそうだった。心の底から、圭人の奏でる音が、ピアノを弾く圭人が好きだったんだよ!」

 圭人の脳裏に、明日香に言われた言葉が浮かび上がる。

『圭ちゃんのピアノって、聴いてたらその曲の風景が見えるよね。私、圭ちゃんの弾くピアノ好きだな』

「なんで……俺、こんな大事なことを」

 忘れていたのだろうか。明日香から言われたこの言葉が嬉しくて、ピアノに熱中するようになったのだ。

「もう一度弾こうよ圭人。君はまだ、明日香さんに聴かせることができるんだよ」

「北川……ありがとう」

「わたしだって、雨を克服して見せるからさ」

 そう言って微笑んだ律花の笑顔が輝いているように見えて、圭人はじっと見惚れる。胸に引っかかっていた異物が取り除かれるような、そんな感覚があった。

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