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瞼の裏に見える世界【最終話】

 遠くに見える明日香の姿を、圭人は静かに見つめる。律花の行方不明騒動があった次の週の水曜日にいつも通り、病院にやってきていた。

「浮かない顔だね。圭人君」

「うわっ、立川先生」

 気づいたら隣に座っていた医師である隼人に驚き、思わず失礼な声を漏らす。

「何か悩み事があるのかな? 専門ではないけど話ぐらいなら僕でも聞けるよ」

「姉さんのところ行かなくていいんですか?」

「もちろん明日香ちゃんに顔を出しに来たんだけどね。ほら、今集中してるみたいだから」

 今圭人がいる場所はリハビリ室だ。視界に映っている明日香は汗をかきながら、一生懸命に補助器具を手で支え、一生懸命に歩いている。以前はあそこまで歩けていなかったので、思わず涙が出てきそうになる。

「俺も声かけようと思ったんですけど、なんか行きづらくて」

「君たち兄弟はほんと馬鹿だな」

 突然に放たれた隼人の言葉に、圭人は耳を疑う。それが聞き間違いではないと理解して、横に座る隼人を睨んだ。

「どういう意味ですか」

 怒りの感じ取れる圭人の声を聴いて、隼人は軽快に笑いながら続ける。

「だって馬鹿だろ。明日香ちゃんの事故のことなら、僕も詳しく知ってる。彼女はずっと言ってたよ。自分のせいで、弟がピアノを辞めたって。かたや弟である君も自分を責め続けているときた。こんな滑稽な姉弟他には居ない」

 隼人の口から聞かされた明日香の本音に、圭人は驚き声を失う。

「でも、彼女は歩き始めた。バージンロードを自分の足で、しっかり歩きたいんだと。さて圭人君、このまま立ち止まったままか、進むのかは君が決めることだ。もとより気づいていないだけで本心は決まっていたようだがね。そのハンドクリーム、医学的にも効果の高いやつだ」

 開きっぱなしの圭人の鞄から見えるハンドクリームを指差しながら、隼人は立ち上がる。ピアニストにとって手の保湿は大事だと明日香に言われ、初めて買ってもらったハンドクリームと同じものを今でも購入し続けていた。

「バージンロードって、姉さんもしかして――」

 一度はスルーした聞き覚えのない単語に圭人は反応する。予想は見事に当たり、明日香の元へ歩き始めた隼人は最後に一言を残す。

「まあ、義兄ちゃんの戯言だと思ってくれ。どうするのかは、自分が決めることだ」

 ひらひらと手を振る隼人の姿はいつもと違い、とても頼もしく圭人の目に映った。



 *



「ふんふんふ~んふふ~ん~。あれ、この後どんなだっけ?」

 病院のグランドピアノの椅子に半分ずつ腰かけ、律花が鍵盤を叩いていた。

 彼女が鼻歌を歌っている時は、機嫌が良い時と決まっている。

「ねえ、圭人。忘れちゃったから、この続き弾いてよ」

 律花は冗談めかした口調で告げる。まだピアノを弾く姿を見せたことがなかった。

 圭人はふぅーと長い息を吐いて呼吸を整えた。

 ピアノと正面に向き合い、白黒の鍵盤に手を伸ばす。久しぶりの堅い感触に懐かしさを覚える。今まではピアノを視界に入れることすら嫌だった。否、怖かったのだ。自分の過去と向き合うことが恐ろしくて、逃げ続けた。

 鍵盤をリズムよく叩くたび、呼応したピアノが美しい音色を響かせる。音はいつでも待ってくれていた。包み込むような温かい感覚を感じて、それを確信する。

 ギロック作曲の『ウィーンの想い出』。ピアノを始めたばかりの頃に、完璧に弾いたことで当時はかなり驚かれた。コンクールの審査員から天才と言われて褒められたことを今でも鮮明に覚えている。

 『ウィーンの想い出』は特に緩急をつけることが大事だ。圭人の指は、当時の感覚を取り戻すように滑らかな動作で音を奏でていく。

 ふと、律花と出会ってからの時間に想いを馳せる。自然と全身の力が抜けて、旋律が脳を揺らし響き渡る。病院にいる患者や職員が振り向くほどに澄んだ音色を弾ませる。

 永遠と錯覚する美しい演奏は、最後の音色によって終わりを告げる。弾き終わった圭人を待っていたのは、目に涙を浮かべた律花だった。

「すごく綺麗な音。聴き惚れちゃった」

「俺、もう逃げないよ。自分の過去から、自分の本当に好きなものから逃げない」

 涙を流す律花の手を取り、暗い瞳をまっすぐに見つめる。

「わたしが圭人の二番目のファンだからね」 

 律花の目から涙が止まった頃、圭人は意を決し立ち上がる。

「俺、夏のコンクールに出ようと思うんだ。北川にも、聴きにきて欲しい」

 その言葉を聞いた途端、律花の表情は明るさを増す。

「圭人が……コンクール!」

 嬉しい気持ちが溢れたのか、彼女はそのまま椅子から勢いよく立ち上がった。



 *



 律花にピアノコンクールに出場することを伝えてから、二か月の時が流れていた。姉の明日香と母の百合子にもピアノをもう一度弾くことを告げると、二人とも号泣して喜んでくれた。もう、枷になるものは圭人の中から消え失せている。

「大丈夫。いける」

 ピアノコンクール本番前の緊張感は、小学生の時に感じたものと同じで、やっと時間が動き出したような気がする。

 弾き終わった他の出場者が、控え室に戻ってくる時の表情は安心した顔もあれば、絶望した顔もあり様々だ。

 この二か月は、辞めてからの六年間を取り戻すために、すべての時間をピアノの練習に費やした。明日香にもう一度自分の音を聴いてほしい。そして――

「北川に、俺のピアノで世界を見せるんだ」

 明日香は圭人の音を聴いて、風景が見えると言ってくれた。ピアノを始めてから、言われて一番嬉しかった言葉だ。

「次、三十八番の高宮圭人さん。待機お願いします」

 あっという間に順番が回ってきたようで、圭人は椅子から立ち上がり控室から出る。前の順番の出場者の演奏が始まった音を耳にしながら、舞台脇のスペースに設置された椅子に腰を下ろした。


 音色が徐々に小さくなり、演奏が終わったことを察知する。ついに圭人の番が回ってきたが、驚くことに緊張は消え去り、心の中は冷静を保っていた。

 拍手喝采と共に、演奏者が前を通り過ぎていく。椅子から腰を上げると、プログラムの演奏者名・自由曲の紹介と同時に、眩しく光るステージへと足を踏み入れる。そして、堂々とした足取りでピアノ前方まで歩き一礼をした。観客席の中に明日香と百合子がこちらに手を振っているのが見えて安心する。

 嵐のような拍手の音を鼓膜で受けながら、椅子に座る。

 演奏を始めようと、鍵盤に手を伸ばしたところで、圭人の視界と体は硬直した。次の瞬間、明日香の事故の記憶が流れ込んできて脳を支配する。小学五年生のコンクールで、圭人の演奏中に明日香は事故にあい、命の危機に陥った。何も知らずに呑気にピアノを弾いていた当時と今が重なる。冷汗はとめどなく流れるが、指先は動かない。あまりにも演奏が始まらないため、観客席もざわつき始めている。

 乗り越えたと過信し、醜態を晒す自分のことが圭人は憎くてたまらない。観に来てくれている百合子と明日香。それに、律花にも失望されたかもしれない。

 ――苦しくて息ができない。圭人の視界を徐々に暗闇が侵食し始める。

「圭人! わたし、見てるから!」

 遠くで大切な人の声が聞こえた気がして、圭人は僅かに残った意識を繋ぎとめた。暗闇が覆っていた視界には一筋の光が差し込む。

「見てる……か」

 小さな声で呟くと、視界の靄が消えていくのがわかった。トラウマから解放された体を動かして、声の主を見上げる。二階席の端で立っている律花は、会場全員の注目を集めている。思わず笑みがこぼれ、心の中で彼女に礼を告げる。

 誰も注目していない中、圭人は静かに始まりの一音目を鳴らした。

 そして、ドビュッシーの『月の光』をゆったりと奏で始める。

 強弱のついた美しい音色で冒頭が始まり、観客席に緊張感が漂う。数秒前に大声を出した少女のことなど誰も覚えていないほどに、全員が一瞬で静まり返る。

 圭人の指は滑らかな動作で次の音を探す。導き出された音はキラキラと彩り存在を主張している。聴く者の瞼の裏には、旋律によって生まれたそれぞれの世界が形作られていた。

 出会ってくれてありがとう。

 律花の生きる姿勢から、大事なことを気づかされた。彼女が圭人の人生に与えた影響は大きい。再度、心の中で律花に感謝を告げる。

 今度は、俺の方からピアノコンサートにでも誘ってみよう。

 感謝とはまた別の感情を抱き、圭人は彼女を想う。

 ピアノと会話するように鍵盤と触れ合う。気づくと、圭人の奏でる音色はますます洗練されていく。

 久しぶりの心地良い感覚に包み込まれる。もう何があっても、ピアノは辞めないと心に誓った。

 きっともう、この信念だけは揺ぎ無く存在し続けるだろう。



 音は情景をのせて、世界を映し出す。



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