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瞼の裏に見える世界【1話】

 音は情景をのせて、世界を映し出す。

 奏でる旋律には色が生まれ、キラキラと彩り存在を主張する。洗練された音色は聴く者の脳裏で風景へと変わり世界を形作るのだ。

 かつては信じていたそれが、今となっては枷となり、重石となり、圧となり、痛みとなり心を蝕んでいる。

 人間とは変化を嫌う生き物であると、どこかの哲学者の言葉で聞いたことがある。だが、この言葉は真っ赤な噓だ。昔は好きだったピアノも、今、耳に届いているピアノの音でさえ煩わしく感じるほどに憎い存在へと変貌してしまった。

 病院の受付前に立っている圭人けいとは、後ろで流れる下手くそな演奏を耳にしつつ、面会許可証を持ってくる職員を待っていた。放課後の毎週水曜日は、姉である明日香あすかの見舞いに行くと決めている。

 聞こえてくる曲は、恐らく『ジングルベル』だ。外は暖かい風が吹き、桜の花びらが舞う季節なのに。ちょっとずれた選曲に思わず笑みがこぼれた。リズムはバラバラで、最も致命的なのは一オクターブ低いことだ。

高宮たかみやさん、お待たせしました」

 受付の裏にある部屋から出てきた受付職員が、面会証をカウンターの上に置く。それを手に取ると、明日香の病室に行こうと振り返り、啞然とした。

 姉の明日香が入院している病院で広いロビーの真ん中で存在を主張するように置かれたグランドピアノは、いつも子供達の良きおもちゃとなっている。さて、今日は誰が弾いているのかと見てみると、そこに座ってピアノを弾いていたのは圭人と同じくらいの年の少女だったので驚いた。

 圭人は、高校二年生になったばかりの十六歳で、少女の歳もそこまで変わらないように見える。少女も誰かの見舞いできているのだろうか。涼しげな目元が印象的だった。

 ふと、明日香のために買ってきたアイスのことを思い出し、足早でピアノの横を通り過ぎるその瞬間、パタンと何かが倒れる音が聞こえた。振り返ると足元に白い杖が転がっていた。少女は演奏に夢中で気づいていない。白い杖を拾い上げると、少女に声をかけた。

「あの、演奏中にすみません」

「はい、わたしですか?」

 少女は演奏の手を止めると、おもむろに顔を上げる。その声は、春のような暖かい雰囲気を纏いつつ、鈴を転がすような綺麗な声質で、一度聴いたら忘れない印象に残る声だ。

「これ、あなたのですか?」

 圭人は白い杖を目の前に差し出す。少女はぼんやりと空を見つめ、疑問そうな顔を浮かべると、差し出した杖と違う高さに両手を出した。

「すみません。わたし目が見えないので、手の上に乗せてもらってもいいですか?」

 目線が合わないこと、どうにも噛み合わない行動。そして、少女の言葉により、相対する人物の視力が優れていないことを圭人は理解し、改めて少女の顔に目を向けた。目鼻立ちの整った綺麗な顔立ちに、肩まで伸びた艶やかな髪がとても魅力的な人だった。吹けば飛ぶような儚げな雰囲気がある不思議な少女だ。

「どうぞ」

「あっ、白杖はくじょう。あれ? 椅子のところに立てかけておいたんですけど、倒れてたんですね。ありがとうございます」 

 視力が優れない人が持つ白い杖のことを白杖と呼ぶのだと圭人は初めて知った。白杖を受け取った少女は、深々と頭を下げる。

「いえ、こちらこそ気が利かなくすみません」

「謝らないでください。わたしが気づかないのが悪かったんですから」

 圭人の言葉に少女は焦ったように顔の前で大げさに手を横に振る。

「あ、それと」

「はい?」

 この言葉を告げようかと一瞬悩んだ後、決心して少女へと口を開いた。

「ワンオクターブ下ですよ」

「え?」

「失礼します」

 そっと少女の手首を持ち、鍵盤の上に指を置いた。

 初めて会った他人に対して指摘をするのはどうかと思ったが、言わずにモヤモヤしたまま不協和音のようなジングルベルが頭に残るのは避けたかったのだ。少女は情報が吞み込めずに硬直している。対照的に、圭人は踵を返して歩き出した。

「あの、ピアノは弾けますか?」

 その声に圭人の足はピタリと止まった。

「ピアノ……」

 予想外の質問に圭人は返答に困り、言葉の先が続かない。

「あ、じゃあ音楽は好きですか? わたし、弾くのは下手だけど、音楽を聴くのは好きなんです。特にドビュッシーの『月の光』って曲が大好きで。知ってます? ピアノの演奏で、その曲聴いてたら景色が見えるっていうか、不思議な感じなんですよ。それから――」

 音楽の話になって熱の入った少女は、圭人の反応を気にすることなく捲し立てる。

「ピアノは弾かないし、音楽は嫌いです」

 少女の言葉を遮り、少しだけ強い口調で圭人は言い放った。そして、今度こそ明日香の病室に向かうためピアノから遠ざかっていく。少女は、飼い主から怒られた子犬のように静かで、それ以上に話を続けることはなかった。

「圭人君、今日もお見舞い?」

 明日香の病室に向かう途中、廊下ですれ違った看護師の女性に声をかけられ、圭人は立ち止まって軽い会釈をする。

「はい。いつも姉がお世話になってます」

 見舞いに行くのは、毎週水曜日の放課後だ。頻繫に訪れているので数人の病院の職員からは顔と名前を憶えられている。

「明日香ちゃんは幸せ者ね。こんな姉思いな弟さんがいて」

「いえ、そんなことないです。俺は……」

 ただ明日香に対する罪悪感があるだけなのだ。とは、決して口にはしないが。圭人の心境を知ってか知らずか、それ以上のことを看護師の女性は訊いてこなかった。

「昨日の夜、明日香ちゃん調子が悪かったみたい。顔見せて元気出してあげて」

「え? そうなんですか? ありがとうございます」

 看護師に一礼すると、足早に明日香のもとへと向かった。



「あら、いらっしゃい圭ちゃん」

圭人のことを圭ちゃんと愛称で呼ぶのは、この世で一人だけだ。明日香は六年前のある事故が理由で脊髄を損傷しており、呼吸器合併症を引き起こしている。それが原因で、頻繫に病院への入退院を繰り返していた。

「姉さん、少し瘦せたんじゃないか?」

 病院は個室を借りているので、明日香の姿が余計に小さく見える。

「女性に体型の話をするのはモテないわよ、圭ちゃん。そんなことより、毎週私の所に来てるけど、お友達とか彼女とかと遊ばなくていいの?」

「大丈夫だよ、俺の心配より自分の心配をしてくれ。さっき看護師さんに聞いたけど、昨日はあんまり調子が良くなかったんだって?」

「大げさね、ちょっと息が苦しかっただけよ」

 姉の弱った姿を見続けて随分と長いが、圭人は今でも後悔の念に囚われている。病院の集中治療室で、横たわる明日香の姿を見て泣き崩れる両親の悲痛な表情がちらつくのだ。その時の明日香の顔は、生きている人間とは思えないほどに蒼白になっていた。それもこれも全ては自分のせいであるという重圧が、心にのしかかっている。

「ごめん、姉さん」

「ちょっと、なんで圭ちゃんが謝るの? 変な子ね」

 俯いた圭人の頭を撫でながら、明日香ははにかんだ笑顔を見せる。昔から変わっていない弟の扱いに物申したい圭人だが、今はそんな気分ではない。

「失礼していいかな?」

 病室の出入り口に立っている白衣姿の若い医師が、二人に声をかけた。目尻の下がった優しい顔立ちに、すらっと長く伸びた足。間違いなくハンサムといえる部類だ。

立川たちかわ先生、どうされたんですか」

「ごめんね明日香ちゃん、これ返しに来たんだ。すごく面白かったよ。最後にあんなどんでん返しがあるとはね、どうしても話したくて」

 立川隼人たちかわはやとという名が印刷されたネームプレートを胸に付けたこの人物は、明日香の主治医であり、圭人とも顔見知りの仲だ。明日香から借りた推理小説を返しに来たらしい。

「そうなんですよ! びっくりするラストなんですけど、読み返してみたらちゃんと伏線が所々に散りばめられてて鳥肌たっちゃいますよね」

 明日香のテンションが急に上がる。事故をしてからの明日香は本の世界に熱中するようになっていた。その趣味を共有できる人ができて楽しそうだ。

「圭人君久しぶり。ごめんね、せっかくお見舞いに来てくれたのに邪魔しちゃって」

 隼人は憎めない笑顔を浮かべながら圭人の方へと顔を向ける。

「いえ、顔を見に来ただけなんで。それに、姉さん立川先生が来ると元気になるので」

 圭人のことを気にせずに、二人は推理小説の感想を互いに語り合う。

 なんだかここに居座ることが悪いことのように思えてくる。実際、頻繫にお見舞いに来ているので、長居するつもりはなかった。

「それじゃ、今日はもう帰るよ。二人の邪魔しちゃ悪いしね」

「ちょっと圭ちゃん! そんなんじゃないんだってば! すみません立川先生、この子私のことからかってるんです」

 圭人の一言で顔を真っ赤にした明日香は、隼人に弁明しているが、隼人の頬もうっすらと赤くなっているのが窺えた。どうやら、二人ともまんざらではない様子だ。

「じゃあね、姉さん。立川先生、姉さんのことよろしくお願いします」

「余計なこと言わなくていいの! 気をつけて帰ってね」

 ドアを閉めながら、視線を合わせずに気まずくなっている二人の姿を確認して、圭人は思わず笑みがこぼれる。

 病院を出ると、駅を目指して歩き出した。学校が終わって制服のままやってきていたが、学校の最寄駅から病院までは二駅しか離れていないので通いやすい。病院は家とは逆方向にあり、帰りの電車での滞在時間が少しだけ長くなる。病院から最寄りの駅までは歩いて十分程度なので少し進むと、大きな口を開けた駅の入口がすぐに姿を現した。

駅に入ってすぐの、通路左側の壁に掲載されたデジタルサイネージを見て、圭人は静かにため息を漏らした。そこには『高校生夏のピアノコンクール』と大々的に記載され、集客を目的とした広告が映し出されていたのだ。

 コンクールという単語を目にするだけで、昔の記憶が逆流してくるような感覚に襲われる。

複雑な感情を内にしまい込み、駅のホームを通過すると、その時ちょうどにきた目的の電車に乗り込んで帰路についた。

 *

「おかえり圭人。今日は随分早かったのね。お姉ちゃんのお見舞いに行くって言ってなかった?」

 家に着いて圭人がリビングに足を踏み入れると、夕飯の支度をしていた母の百合子ゆりこの声がキッチンの方向から聞こえた。

「姉さんの恋路を応援して早めに帰ってきたんだ」

「あら、気になる話ね。あとで聞かせてちょうだい。それと、帰ってきて早々に悪いんだけど隣の部屋から焼肉プレートとってきてくれない?」

「わかった。持ってくる」

 台所では野菜を刻む小気味よい音が響いている。圭人は頼まれたものを取りにリビングを出た。隣の部屋は半分物置部屋と化しており、様々なガラクタやたまにしか使わない日用品が置かれている。百合子が断捨離を苦手としていることが理由の一つだ。昔はピアノ練習の場として使われていた部屋でもある。

 部屋に入って最初に視界に飛び込んでくる大きな存在に目を向け、駅でデジタルサイネージを見た時と同様のため息を吐く。黒くて巨大な物体、グランドピアノだ。圭人が小学生の時に誕生日プレゼントとして両親から貰ったピアノは、ピアノを辞めて六年程経った今でも部屋の中で埃をかぶりながら存在を主張している。使われなくなったピアノが恨めしそうに自分を見ている気がして、圭人はすぐに目を逸らし、目的の物を探した。

「あったよ」

「ありがとう、そっちのテーブルの上に置いて電源つけておいて」

 母の指示に従い次の行動に移る。コンセントを繋いだり、食材を運んだりする圭人の横で、百合子が二人分の食器を運ぶのが目に入った。

「あれ? 今日も父さん帰ってこないんだ」

「そうみたいよ、帰れるのは早くて来週の頭くらいだってさ」

 父は外資系の証券会社で仕事をしており、ほとんど家に帰ってこない。その忙しさのおかげで部屋を一つ物置にするほどの裕福が与えられているので文句は言えない。

 家族の半分しか揃っていない二人で食卓を囲み、野菜や肉を百合子が手際よく焼いていく。

「明日香、いい人がいるんだって?」

「そうそう、なんか立川先生といい感じだったよ」

「あら、あのイケメン先生!?」

 圭人は淡々とした口調で今日の明日香のことについて話す。百合子はそれを聞いて幸せそうな表情を見せた。

 話しているとプレートの上の食材が食べごろになり、それぞれの皿に取り分けられる。

「二人で焼肉なんて贅沢だね」

「そうね。でも、たまにはいいじゃない」

 その後も百合子と他愛もない話を続けながら、食事を続けた。

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