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『エチカ』 ~ 運命Ⅱ

「そうだよ。だからきっと、きみが飛べる人間であると同時に、思考屑の毒の抜き方を探してる人間だということに気づいたのさ。」


「ぼくが?」


「よくおもい出してみてエチカくん。レディマンタは毒の流し方を発見して、あれだけずっと正気を保ちつづけていたのに、わたしとの辛い記憶を思い出した途端、葛藤にボディを支配されてしまった。


「そっか。 そっか、そっか、そっか! レディマンタもぼくの思考と同調して、涙の種の作用に負けちゃうほど感情を揺さぶられたというわけか。 あのとき… ぼくは何を…」

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◎ 前回まではコチラです◎
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(1) シャークの森 (2) FLY!FLY!FLY! (3) 空間と体は切り離されてはいない
(4) 運命 (5) 涙の種 (6) きずな (7) 体は何も忘れてない (8) 感情を感情のままに         

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記憶が立ち上がるよりも早く、頭の中でベートーヴェンが鳴っていた。
そこは親父の書斎だった。

壁一面のアナログレコード、専門書の類、整然とそびえ立つ書棚。ドクドクッと脈打つ真空管アンプが、漆黒のドーナツに刻まれたハーモニーを飛沫のように吹きあげる。音響はまたたく間に細胞の振動数をかえ、皮膚感覚をかぎりなくゼロへと近づけていった。子供ながらにそのサウンドが、iPhoneで聴くものとも、街中の空気をゆらすものとも全く異なる響きであることに心が震えたのをおぼえている。


___「エチカ。 ベートーヴェンはな、この『運命』を失意のどん底のなかで完成させだんだ。 ヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との破局、そして聴覚障害の悪化。そのころ彼はもう、大声で声をかけられても気づきもしないほど耳が悪くなっていたそうだ。 にもかかわらず、構想がありながら置いたままになっていた楽曲にふたたび挑みはじめた。それが、交響曲 第五番『運命』だ。
五体満足で音楽を楽しむだけの人間に生みの苦しみのほどはわからないが、それでも思うのだよ、ベートーヴェンの最もな才能は、苦難を苦難のままに生かす覚悟にあったのではないかと・・・」


親父はいつだって、相手が子供であろうとかまわず、じぶんの話したいことを話したいように話した。ぼくは何だかわからないながらも、そういうときの親父の口調や佇まいが嫌いではなかった。 むしろ、下手に子供あつかいされないことを気に入っていた。だが決してホームドラマに出てくるような気さくであったかな父親ではなかった。たまの休みに家族で旅行に出かけても、ある距離以上は人の手さえも近づけさせない気迫をいつも体中にまとっていた。


小5の夏休み、ほんの興味本位で棚からレコードを抜き出そうとしたことがあった。ぎっしりとならぶ背表紙の上の角に指を引っかけ、左右に揺すってみたがびくともしない。親父がいつも、その頑丈そうな指をかぎ針のようにつかって引き出すのを見ていたからまねしてみたのだ。 

もう一度ありったけの力をひとさし指にぎゅっと込め、今度は手前側へジャケットの角を倒すようにしてみた。すると、その一枚が引き金となり棚につらなるレコードがたわむようにくっついて出てきたのだ。ぼくは、背丈の倍以上もあるラックが倒れてきそうな気配に襲われ恐くなり、慌てて両てのひらで叩いて押しもどした。気づくと部屋の空気が、親父がたまに飲んでいたブランデーの匂いを醸し、うっとむせかえり飛び出した。レコードの鳴らない書斎は、大理石の檻のなか、口を閉ざされた生きものがひしめきあってるような息苦しさだとそのとき感じた。
                     

中学に入ったころ、親父は役員を務めていたグループ企業の社長に就任した。そのお祝いにと、入手困難な演奏会の席を会長直々の計らいでプレゼントされた。家族分の来賓席が用意され、プログラムには親父がずっと生演奏で聴きたがっていた『運命』もあった。 よほど嬉しかったのだろう。鼻歌をうたいながらシャワーを浴びているのをはじめて聞いた。 


会場へと向かう車中、スマフォをずっといじっていたぼくに、視線で止めるよう促していた母親。その様子をバックミラー越しにちらっと見ては、止めないぼくに笑みを送ってくれていた運転手。まだつきあいは浅かったが、なんとなくフィーリングが合うノリを感じて、ぼくは調子に乗ってゲームをやりつづけた。 
首都高をおりるころ、あまりの夕陽の眩しさに手を止めた。すると親父が、たまりかねたトーンで、「しまえ」と、一言発した。
電子音がピコピコと車中にまぬけに響き、たった今しまおうと思ってたのに!と、負けおしみのような台詞を喉元で押し殺し、それでもチッと舌打ちしてジャケットの内ポケットに仕舞った。うっかり電源を切らないまま。

   
             *

「うわぁあああーーーー=====っ!」


「エチカくん! どうしたのさ、しっかりしてっ!」


「はぁ、はぁ ;;」


「何かおもい出したんだね? 焦らなくていいよ、しっかり呼吸に意識をあわせて。 エチカくん、大丈夫だから!」

何度くりかえされたか分からないあの場面が脳裏に再生された。

       
            *

___ ダダダダーーーン ダダダダーーーン

厳かにフォルテッシモが鳴り響き、優美な弦が静かに聴衆を惹きこむ。
あろうことかそのタイミングで鳴ったのだ。指揮棒はおろされ騒響がおこった。
親父はさっと立ち上がり、深々と一礼だけしてぼくの手を引き会場を出た。

その後、どんな様子だったのかほとんど覚えていない。
ただ、ホワイエに出た途端に親父が立ち止まり、目もあわせずに吐いた鉛色の響きだけが、ぼくの胸に重くのしかかった。

___「おまえはダメだ」


数日後、母はLINEに、「終わった事は運命。これからはじぶんで創っていける。」と、メッセージをくれていた。あのときは、なぜ直接いわないのか戸惑ったが、スマフォに纏わりついたネガティヴな思いを肯定的なフレーズで散らそうという、母なりの気遣いだったのかもしれない。実際、この言葉が残っていたおかげで、ぬかるみにはまりそうになる心を、何度前へ進めてくれたことか。

その後も母は変わらず明るく、あの話題が夕食の席でくりかえさることもなく、親父は何事もなかったように従来どおりのふるまいを見せていた。
だからぼく自身もまさか、あの一言が、しこりのようにずっと心の奥底でいびつな成長をかさねているとは露とも知らずに過ごしていたのだ。


親父はそれから3年もしないうちに亡くなった。心筋梗塞だった。
そしてぼくは葬儀の日、参列していた部下たちが喫煙室へ向かう途中、立ち話をしていたのを偶然きくことになる。

例の一件は、当時どこからか社内に漏れ、相当な陰口をたたかれていたようだった。それをいいことに、親父の昇進をよく思っていなかった役員のひとりが、事あるごとに足を引っ掛けようと陰湿な企てをしていたのだという。社長の急死は、そのストレスが積み重なってのことなんじゃないかと噂が立っていた。

ぼくは愕然とした。親父の早過ぎた死は、自分のあんなしょうもない過失が尾を引き招いたものなのか? 親父は家族の知らないところで、そんなにも苦悩していたのだろうか。自分を責める反面、親父を責めつづけた。
__苦難を苦難のままに生かす覚悟は親父にはなかったのかよっ!
やりきれなさで涙も出なかった。


もちろん、今ならわかる。それが根拠のない他人の憶測だということを。
親父はたしかに、見た目の頑健さに似合わず、クラシックに心酔するほど繊細な感受性も持ち合わせていた。が、人間の生き死にの理由を一点に集約できるほど人智は神ではない。 
しかしあの頃のぼくはまだ、ただのティーンだった。あまりに突然の悲しみを受けいれることができず、かといって葛藤と向き合う持久力もないまま行き場のない感情を無意識のうちに封印したのだ。

                *


ぼくがパンドラの箱と格闘している間ずっと、じぶんの状況も忘れて名前を呼びつづけてくれてたおしゃべり鮫。おかげで、視界を曇らせるあの蜘蛛の巣の餌食になりそうな意識を、なんとか今につなぎとめることができた。それでも息が苦しかった。すこし気を抜くとまた直ぐにあの会場に引き戻され、鉛色の響きが脳内を支配する。


___「おまえはダメだ!」「 ダメダメダメダメダメダメダメダメ・・・」

「エチカくん、記憶と闘わなくていいよ。 ゆっくり深呼吸して。 じぶんのペースで呼吸しながら、わいてくる思いをそのまま感じるんだよ。 大丈夫、わたしもこの巨大藻の根に落ちてから、ずっとそれをやっていたのさ。過去はきみの今を奪いはしない。感情は空に浮かぶ雲とおなじさ。おのずと姿をかえていくよ。」


「・・・雲?」


そのたったひとつのワードが、ぼくの脳裏に張り巡らされた蜘蛛の巣に風穴をあけた。


(蜘蛛じゃなくて、雲…)


急に頭のなかにうずまくイメージが変化した。そして静かに、感情に抗うのをやめた。ただ、胸の奥をしめつけるその蠢きを、名をつけず、解釈もせず、ただじっとそのままに感じてみた。浅くなったり、荒くなったりするのもそのままに、ただただ呼吸に意識をあわせつづけた。


「エチカくん! ほら見てっ!」


鮫の視線の先に目をやると、びくともしなかった巨大藻の林から、複雑な形をした海藻が次々と剥がれていく。


( あれは… レディマンタの背で目覚めたとき、額にはりついていたのと同じ…)


その時、海藻のひとつが水流にのってふわりとひらいた。


「ん? 漢字?」


それは「悲」の形をしていた。ぼろぼろだったがはっきりと分かった。またひとつふたつと水流にのってひらいていった。「怒」「辛」「苦」・・・。 
それらはすべて、日頃あまり味わいたいとは思わない感情の数々だった。


漢字たちは、ふわっとひらくとシャボンのようにはじけ、泡のつぷつぷがプリズムの光を放ちながら上へ上とあがっていった。


「エチカくん、もうお別れかもしれない…」

「へ? どうしてだよ。あの海藻がどんどん剥がれてったら、あなたの体もその根から自由になるんじゃないか?」


おしゃべり鮫は、黙ってゆらゆらと揺れはじめた。
ずっと上の方で、レディマンタの声がした。


「 ありがとう…。」


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つづく

★追記★
下書きの整理をしていたら、誤って公開記事を削除してしまいました‥(TT)  。「スキ」をくださった皆さま。ほんと嬉しかったのにごめんなさい💧
削除記事をコピペすることは出来たので、気を取り直して再投稿しました。


本日も💛 最後までお読みいただきありがとうございます☺︎