【短編】猫のキズ

 固く針のように逆立つ白と黒の毛。水を浴びるかのように砂にまみれて、本来の艷やかさは消えていた。
 私の家の庭先に、たまにふらふらと散歩しに来る猫。そいつは来るたびに、自分の綺麗な毛並みなんてどうでもいいように呑気にして、ただ自由に四本の足を滑らかに運んでいた。
 しかし、今日はその自由さも美しさもなく、薄汚れて庭先へと現れた。
 リビングの窓越しに、私の目にそんな猫が映った。口元寸前でコーヒーの入ったコップが止まる。そして私は、思わず二、三秒固まってその姿をじっと見つめてしまった。
 「だ、だ、だだっ。大丈夫か?」
 私の喉奥から空気を多く含んだ声が抜けていった。
 私は窓を開け放ち、裸足のまま砂地に降り立った。少しの痛みを足裏に覚えながらも、そーっとそいつに近づく。
 普段であれば、スンッとすました顔をして私を置き去りにするのだが、今日は様子がやはりおかしかった。猫は明らかに敵意を示すように、こちらをその細い瞳孔で睨みつけると、「シャー」と腹の底から押し出すように声を放った。剥き出しになった八重歯は陽光に照らされて、その鋭い白を輝かせていた。
 それでも私は、その場にしゃがみ込むと、そいつの下からそっーと手を差し伸べた。とにかく笑いかけて、穏やかさを心がけて、「おいで」と一言添えた。
 餌を狩るようにじっと見つめてくる猫と、穏やかにその針を一本一本丁寧に抜こうと、刺々しい視線を包み込む私。ここで目を離してはいけない本能的に感じた。
 「おいで」
 もう一度私は猫に呼びかける。
 依然として猫から返答が来るとことはなく、少し怯えるように、それでも威勢を張るように、こちらを睨みつけてきた。
 私は視線を外すことなくそいつが来るのを待った。ずっと待った。やつの警戒がとけるまで待ち続けた。
 その間吹き抜ける生暖かい風は、私の短めの髪を揺らすことはあっても、猫の硬く尖った毛並みを揺らすことはなかった。
 「大丈夫。私は君をいじめたりなんてしないよ」
 にこりと上手く笑えただろうか、私は口角をぐっと上げた。 
 ぶつかる視線の間は火花が散るほど両者譲らなかった。
 十五分はたっただろうか。部屋の中の時計の長針は、九十度動いていた。 
 そんな中、猫がゆっくり一歩こちらに向かって歩き出した。それに私は無言でうなづいた。
 また一歩、一歩と、猫は私に歩み寄ってきた。そして懐に潜り込む。
 さっきまで逆立っていた毛は、柔らかに落ち着いて、明らかこわばっていたこいつの体は、ぐでっと力が抜けた様子だった。まるで水を持っているかのように、スルスルと指の間から抜けていきそうに思えた。
 私はあぐらをかくと、その上にぽんと猫を置いた。よくよく間近でみると、赤く残る引っかき傷が複数箇所あり、それがとても痛々しかった。人間であれば風呂にしみるそれに、私はしかめ面をした。
 「よく頑張ったな。お前はよく立ち向かったな」
 昨晩、というよりも今朝明け方に聞こえてきた叫び声に等しい喉の深いところで割った様な猫の鳴き声。それは多分こいつのだったのだろう。
 私は傷に触れないように、優しく指先で触れるように猫をなでた。なでていたら、こいつが過去の自分と重なりかけた。 
 砂まみれ、傷。ほんと、嫌な思い出だ。砂の味まで思い出される。血の鉄っぽい香りに、砂の苦くクセの残る香りが混じったのを、私は毎日のように嗅いでいた。顔を幾度となく洗っても、その匂いはずっと鼻にこびりついていた。 
 私は、私は反抗できなかったから。立ち向かえなかったから、それができたこいつは相当すごい。
 自分の弱さを認めた上で、逃げずに立ち向かったであろう傷は勲章に思えた。
 私は自分の右肘を左の手の指先で軽くなぞった。
 私のこれは、負の遺産。
 ただどちらも表だけ見れば、同じ傷跡だった。
 

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