【短編】輝く月は(前編)
まるで定規とコンパスを使って描いたかのような美しい稜線を持つ山。その麓の村には昔から言い伝えられてきた掟が存在した。
「満月の夜は山に登ってはいけない」
村の人々はこの掟を破ると災があるとして、満月の夜は決まって全員で広場に集まって朝を迎えていた。それは、それぞれが持った他人に対する猜疑心を無くすためのものだった。
誰一人山に登らせることはないように、山道の入口に二人見張りをつけて、その他村人を一処に集め全員で見張っていたのだ。
鈴虫の柔らかな羽音の鳴る秋の夜。まん丸の月が山頂に顔を乗せている。そんな今日もまた、村人達は、広場に松明をこさえて集まっていた。
「おお、村長。今夜もまた一杯どうです?」
宙で有りもしない盃をくいっと傾けるようにして、一人の少し頭の禿げた男が村長の前に歩み寄った。
「おお、甚平さん。すまんが今日はひかえておくよ。毎度毎度飲みすぎだと妻に言われてね。」
「そうですかい。それは残念」
「申し訳ないね」
村長は謝るように手を合わせた。
「いえいえ、また今度どこかで」
「ええ」
「それにしても、今晩もまた奇妙にもまん丸に空にぶら下がってますね。あいつは」
そう言って甚平が見上げる先、そこにいた数名の焦点もそちらに合わせられた。注目の的はもちろん、淡い金色に光る満月だった。
「ああ、本当にな。厄介なこった。あいつがああやって丸くなるせいで、俺等はいつも月に一回は不安な夜を過ごさなきゃいけねぇ」
若い男が首を横に振りながら話した。
「ずっと細く欠けてくれてりゃ世話ないんだがな」
「ほんと、困ったものよ」
「あーあ、早く日昇ってくれないかしらね」
男に続くようにして、村人たちの不満が漏れた。
秋の涼しい、透き通った風が灯る松明の炎を揺らす。しかし、吹き抜けようとするその風にまとわりつくかのように、どんよりとした空気が、広場には漂っていた。
全員が全員、どこかで誰かが抜け出して山に登っていないかと同じ村人に対して鋭い監視の目を向けていた。
「ほい、皆。今日もご足労ありがとう」
村長の声が、静かな虫の声止まぬ山間に反響する。広場に集まった、大体五十人ほどの視線が村長の方へと向けられた。
「今回もいつも通り点呼をしてほしい。組長達よろしく頼んだ」
「はい」
数名の返事が重なる。それに合わせて村人たちはずらずらと自分の組長の前に集まって点呼が始まった。
「一組問題なし」
「二組問題なし」
「三組、遠江の爺さんがいませんが、本日体調不良のためだと娘さんが言っております。その他問題ありません」
その報告に少しざわつく。
「遠江の爺さんか…」
「流石に大丈夫よね」
掟破りの恐怖心が、村人たちに芽生えた。
「本当に大丈夫ですから。おじいさん昨日から咳がひどくて、熱も出てて。さすがに今日連れて来るにはかわいそうでして。私達だって看病したいけどここに来たんです。信じてください」
遠江の娘が声高に言った。しかし、村人達の恐怖心は膨れ上がるばかりで、それに合わせるように声の群れも大きくなっていった。
「まあまあ、皆落ち着け」
村長が、鷹揚にして村人達をなだめる。
「遠江の爺さんにはいつも世話になっとる。話も本当だろう。それに爺さんなら山道からしか入れまい。最悪見張りがおる。ほれ、わしの家内を連れていけばいい。帰って世話してやんなさい。そっちの方が皆も安心するだろう」
「え、い、いいんですか」
「勿論だ。早く行ってやりなさい」
村長はゆっくりと頷いた。
「なあ、皆もそれでいいだろう」
村長の声が広場にこだまする。
「まあ、村長が言うなら…」
「それにトキさんも付いて行くし」
「大丈夫、か」
凪のように落ち着いた村人達を見て、村長は少し深くなったシワ顔に笑みを浮かべて頷いた。
「それじゃあ、仕切り直して。四組の報告からお願いします」
「はい。四組問題ありません」
「五組も問題ありません」
「6組も―」
「おい! それはどういうことだ!」
突然男の怒号が鳴り響く。
「今度はどうした」
また村人たちがざわつき始めた。全員の視線はその怒鳴り声の元に向く。
「すみません。本当にすみません」
「すみませんではない! お前の息子はどこに行ったんだ!」
皆の注目が向いた先では、一人の女が組長の男に詰められていた。
「すみません。本当にさっきまではいたんですが、目を離した隙にどこかへ…」
「ふざけるな! もしお前の息子が山へ行っていたらどうするんだ!」
「絶対に満月の夜には山には登るなと言い聞かせてきました。それはないと思います…」
「そういう問題ではない! さっきのでわかるだろう! 皆不安になるんだ、災が降り注ぐかもしれないと! だからここに集まっている。違うか!」
「すみません。本当にすみません」
女は何度も何度も頭を下げていた。
「取りあえず落ち着きなさい。どうしたんだ?」
村長が人の合間を縫って、その場に割り込む。
「こいつの息子がどこかへ行ってしまったようです。こいついわく山には行っていないそうですが…」
「そうかい」
村長は下がった女の頭に合わせるように、少しかがんだ。
「こちらを向きなさい」
優しくかけられた声に、女は村長と目を合わせた。瞬間、女の瞳孔はキュッと縮まり、息詰まるように彼女の呼吸が止まった。
村長が彼女に向けていたのは、幾度となく鍛錬され鋭く研がれた日本刀の様に、鈍く光る眼光だった。
「おい、お前の息子はどこに行った」
あまりの圧に、女は硬直して口が少しパクパクするだけだった。
「どこだと言っている」
「す、す、すす、すみません。本当にさっきまではいたんです。でもどこかへ行ってしまって―」
「わからないということか?」
「は、はい…」
女は最終的に体を震わせて頷いた。
「おいっ、皆のものよく聞け! こやつの息子がどこかへ行ってしまったようだ。今すぐ見つけ出せ! 山に入られてはまずい。今すぐにだ!」
村長のこれまでの穏やかさはどこへやら、棘のあるがなり声で叫んだ。
「お、お、俺はあっち見てくる」
「じゃあ俺は、とりあえず山道の見張りに伝えてくる」
「私はあっち探してみるわっ」
「なら俺はあっち行く」
それぞれがそれぞれ、あたふたとしながら早く見つけ出そうと駆け出していた。広場には砂埃が立ち込め、灯る松明の明かりを一つ弱くしていた。
「子供だ。どこから山に入るかもわからん。聞き分けのある子であればいいのだか…」
背景であちこちから子の名を叫ぶ声がこだまする中、村長はじっと木々で埋めつくされた山を見つめていた―。
その山の木々の合間、七歳位だろうか、小さい男の子が提灯を手に提げ歩く。その子は息を切らしながら、急になった斜面に積もった落ち葉を踏み砕いて前傾に山を登っていた。
時折吹き下ろす乾いた風に、木の葉は揺れ落ち、その赤や黄、茶色が月光に軽く照らされる。そんな生命の儚さに目もくれず、男の子は一歩一歩着実に山を奥へ奥へと進んでいった。
せせらぐ川を飛び越えて、合唱する虫たちを散らして、彼は前に進む。
「山頂、まだかなー」
どこまでも続く木の海。男の子にとってはそれが永遠に思えるようにつぶやいた。
麓で彼を探す声が響く中、それを背に男の子が暗い道を月光と提灯の明かりだよりに進んでいると、遠くの方で抑揚ある声が彼の耳に入ってきた。
「〜〜は山に―」
次第にはっきり言葉となっていくそれ。
男の子は、その声のもとへと一つギアを上げて向かう。
「満月の〜」
男の子がもうすぐそこへと近づく。
「これ、あの歌だ!」
男の子は少し興奮気味に駆け出した。
最後のひと踏ん張りと急傾斜を登りきった先、彼の眼の前に広がったのは、二十メートル四方より少し大きいくらいに、全く木の生えていない開けた場で、その中心に立つ小さな小屋から声が漏れていた。
男性の芯のあるそれでも柔らかな歌声がにつられて、男の子も歌いだす。
「満月の夜にはー、山は黒い霧で覆われる。満月の夜には、山は木々を揺らして我らをあまねく。それについて行ってしまえば、どうやら天地がひっくり返る。だからいい子に家にいろ。だからいい子に集えよ民よ」
男の子は歌声に誘われて、小屋の中へと入った。戸のすぐ近く、生えるススキは凍てつく夜風に煽られてお辞儀していた。
「おや、こんなところに客人が来るなんて」
小屋の中、入ってすぐ右の障子越しに、年季の入った少し掠れた声がした。
暗がりに蝋燭の明かりだろうか、柔らかく赤い光が障子越しに揺れている。
男の子が恐る恐るその障子を開けて覗き込む。すると、そこには、敷かれた畳の中心にある囲炉裏で暖を取る、年老いた男がぽつりとあぐらをかいていた。
「おやおや、こんな小さな坊やがどうしてこんなところに?」
穏やかに尋ねる老人。
「…月。お月さまに会いに来たの」
「ほお、お月さまに?」
「うん。下からだと遠くて、でもこの山の山頂ならお月さまに会えるかなって。まん丸の日はいつもあそこに座ってるみたいにいるから」
「そうかい」
老人はまとう厚手のちゃんちゃんこに首がすっぽりはまるように、にっこりとして頷いた。
「で、お月さまには会えたかい?」
老人の問いに男の子は首を左右に振る。
「お月さまどこにいるか知ってる?」
「ああ、知っているよ」
「ほんと? 連れてってくれないかな?」
「良かろう」
老人は返事をすると、すぐに立ち上がった。そして、「外だよ」と指を玄関に向けた。
男の子はそれに応じるように外へと駆け出した。そうして辺をキョロキョロ見回すが、男の子の瞳に目当てのものは映らない。
「ねぇ、どこにいるの?」
男の子に聞かれると、少し腰を曲げながら外に出てきた老人は、自慢げに笑ってその無骨な人差し指をピンと真っ直ぐ伸ばした。
「上だよ」
その柔らかな声に誘われて、男の子は顔を上に向ける。
真上とまではいかないが、少し傾いて真っ暗の空に満ちた月が浮かんでいた。
それを見た男の子はあんぐりと口を開ける。
「きれいだあ」
「ほう、綺麗か」
「うん。とっても。山の下から見るよりずっときれいだよ」
男の子は取り憑かれたようにそれに魅入っていた。老人もじっと月を見上げる。
「ねえ、お月さまと話せるかな?」
「んー、難しいかもなぁ」
「どうして?」
「お月さまはな、とっても遠くに居るんだよ」
「遠く? どれぐらい?」
「それはもう、遠くも遠く。空の向こうのもっと向こうにいるんだよ」
「じゃあ、叫んでも声届かない?」
「そうだろうなぁ」
「そっかー」
男の子は、少し残念そうな声で言ったが、月を見つめるその瞳は世界を吸い込むように大きく開かれていた。
「坊やは月が好きなのかい?」
「うん。好きだよ」
「どうしてだい?」
「だってとてもきれいだから。それに、明るいんだけど眩しくなくて、とっても優しく思えるから」
「そうかい」
流れる風に、木々が擦れてサワサワと音を立てる。それに乗せて、鈴虫が一匹ふわっと消えゆく泡のような歌声を披露した。
「でも、でもね。お父さんとかお母さんとか、周りのおとなの人たちは、みんな月はきみょうで怖いって言うんだ」
男の子は、少し唇を尖らせた。
「満月の夜は危ないから山に行っちゃだめだって言うんだよ。一番きれいなときなのに」
「…そうかい」
「うん…。でも、今日はそんなの無視して来たんだ。きれいなお月さまに会いに来たんだ」
男の子は、依然として月を見つめる。
「でも、もっと遠くまで行かないと会えないのかー」
嘆く男の子は残念がるように肩を落とした。
彼にとって月は憧憬の的であり、美の権化として捉えられているようだった。
「坊主は、どうして麓の奴らが月を恐れているのか知っているかい?」
老人の問に、男の子は首を横に振った。
「とにかく、満月の夜には山に登るなとしか言われてない。登るととにかく災いが来るって―。でも僕にはそんなふうには思えないんだ」
男の子は真剣な眼差しを老人に向けた。それは自分は間違えていないと訴えるような目だった。
「なるほど。じゃあ、どうして大人達が月を特に満月を怖がっているのか教えてやろうか」
「え、お爺さん知ってるの?」
「ああ、勿論だとも」
老人はコクリと頷く。
「なら、教えてほしい。それを知ったうえで、大人たちにこのお月さまの綺麗さを教えてあげたい。山の上で見るまん丸のお月さまはとても綺麗だって、教えてあげたい」
男の子はもう一度月を見上げると、右手でそれを掴むようにした。
「それで、僕はお月さまに会いに行くんだ」
「そうかい」
男の子の捉えようのない大きな夢。それでもその決心した表情を見て、老人はまた穏やかに笑った。
「ここでは何だ、小屋の中で話をしようか」
「うんっ」
そう元気に返事をした男の子は、老人についてトコトコと小屋に入っていく。
入口を抜け、すぐ右の障子を老人が開けると、まだ微かに灯っていた囲炉裏の火がその周囲を柔らかな温もりで明るくしていた。そして窓から差し込む月光はそのまわりを青く冷たく照らしていた。
「狭いところで悪いなぁ。ほれ、そこで楽にしなさい」
「ありがとう」
老人に勧められるように、男の子は畳の上に座った。老人も、「よっこいしょ」とゆっくり畳の上に座り、暖を取る様に両手を囲炉裏の前に差し出した。
「茶も出さずにすまんの。最近ものぐさなものでなぁ」
「ううん。そんなことよりぼく、どうして大人たちが月が怖いのか早く知りたい」
そう言う男の子の目は、月より太陽と言ったほうが的を得ているほどキラキラとしていた。
「そうかい。それじゃあ早速話すとするか。麓の奴らがなぜ月を怖がるのかを」
男の子は少し姿勢を正した。
「単刀直入に、どこからそんな話が出てきたのか、まず言おうか」
男の子が生唾を飲み込み、彼の喉が動いた。
囲炉裏の炭がパチっと音を立てて、火の粉が舞う。
老人の口がゆっくりと開かれた。
「わしだよ。わしが麓の奴らに言ったのさ」
老人の口角がぐっと上がった。
囲炉裏の火は、彼の皺の陰影をより際立たせていた。
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