【短編】畳よ畳、畳さん

 微かに湿ってひんやりとした空気を纏い、私は畳の上に寝そべった。大きく深呼吸をすると、鼻腔に溜まるのは乾いた草の香り。
 「ただいま」
 実家のお座敷、仏間で私は大の字になって呟いた。小さく囁いたその声だったが、周りの静寂に当てられ、独りの八畳間に響いた。
 廊下側、障子は一杯に開け放たれていて、その先大きな窓から差し込む陽光は、フローリングを朱色に染めていた。
 ここを去ってから五年。その頃同じ空間で笑っていた祖父母は今、写真越しに私の事をじっと見つめてくる。何も語ってくれることはない。 
 ついでを言えば、あのとき私を何度も何度も痛めつけてきた母親は、今ここにはなく、会うとしたらアクリル板を一つ挟むことになるだろう。
 まあ、だから私はここに帰ってきたのだが…。
 私は勢いをつけて起き上がると、仏壇に並ぶ仏様やら水晶やらを眺めた。なぜそこにあるのかなんて知らない。けれどそこにあって違和感のないそれらが不思議に思えた。
 私は、仏壇にのそのそと四つん這いに近づくと、その前で正座をした。近くにおいてあるロウソクにチャッカマンで火を灯して、私は線香にそれを移した。
 赤を境に、緑が灰に侵食されていく。
 私は線香を上げて、静かに手を合わせた。それに合わせて、上にかかる三人の遺影がギョロッと私を見下ろされた気がして、背筋を水一匙が伝うように私の半身が微かに跳ねた。
 「もう、もう大丈夫だよ…。ごめんね。そうだよね。今更来ても遅いもんね」
 ふざけるな。と、そう言われたようで、私はそれに対してそう返すことしかできなかった。
 目の前をゆらゆらと昇る線香の煙は、その慎ましくも確かに厳かな香りを伴って、私の父の写真へと向かっていた。私は彼の首筋ほどまでしか見ることができなかった。目などとても合わせることはできなかった。
 私が見捨てた彼を、彼を大切に育てた両親を、私は面と向かって見ることができない。独り逃げた私に、きっと彼らは怒っているだろう。恨んでいるだろう。憎んでいるだろう。
 その憎悪の塊を、私は肌でピリピリと感じていた。向こうにいた時はまだ日焼けした程度のそれは、こちらに帰ってきた今となっては、毛穴を縫い針で刺すほどに痛く感じられた。
 私は目を細めて、右隣、襖に目をやる。
 美しい松の絵柄が刷り込まれたそれは、グシャグシャに八つ裂きにされて向こう側が覗き見えた。そしてその奥、広間には未だ残る赤黒いシミ。あちこち散らばるビール瓶の破片がキラキラとしていた。
 「早く。早く片付けないと」
 言葉に出しても足がすくむ。
 襖で一つ遮られているだけなのに、まるで結界が張られているかのように、私はその先に踏み込むことができなかった。
 ガタガタと廊下の窓は、私を急かすように風にその身を震わせる。
 明らかに暗く沈む向こう側。
 母に対する憎しみと恐怖の詰まったその部屋を、私は酷く醜い顔で睨みつけてから、未だ灯る蝋燭をぽっと足元に落とした。もう一分もしない内に、私を囲うように炎が燃え盛る。芯の黒く濁った、白い煙は隆々とそびえたち、私の肺をいじめる。
 「お父さん、私、今からそっちへ行くね」
 これから待つ地獄に、どうせ私は、過去逃げてしまった私は負けることなんでできないのだろう。
 最後、包まれた熱気の中で、私はじっとこれから迎える現実に向き合おうとしていた。
 そんなことは無意味だと知りながら。
 この家を、この私にとって、家族にとって負の象徴を、せめてもの弔いとして、自分とその家族に捧げた。
 遠く、透明な水晶に映るのは、笑顔にご飯を食べる家族だった。が、そんなものは簡単にヒビが入り、砕け散って、こちらに飛んてきた破片に映ったのは気持ちの悪い笑顔で泣き叫ぶ女の姿だった。
 

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