ヤスヒコおじさん③
人生は色々なモノで出来ている
「踏ん張る」
ずさんな金銭管理のおかげで父は会社も家も手放す事になった。
つまり倒産である。
倒産が決まるまで父は私に理由もなく怒鳴り自分の不安をぶつけてきた。
専門学校に進学し辛うじて卒業が出来た私は社会人になり父の事はもうどうでも良かった。
汚い言葉でしか表現が出来ない父を私は無視をする。
会社経営を失敗し、お金がない父を相手にする女性は減っていった。
学生時代のある日、私は海外航路客船のクルーの求人に申し込もうと思い叔母に相談をした事がある。学校は念願の語学系へ進学が出来たのでそのような求人が来るのだ。
返ってきた言葉は
「そんなのだめに決まってるじゃない。」
絶句をする私。
それからは投げやりな気分で過ごし、不貞腐れるかのように大いに遊び学生生活を終えた。
あの時に何故「私はやりたい。」と言い切れなかったのだろうか。言えば良かったとずっと後悔をしている。
そう。
反論して嫌われたくなかったから。
一人になるのが嫌だったから私は言葉を飲み込んだのだ。
私は卒業をしてから何となく仕事をして数年後に結婚し、長女を出産する。
夫は三女が生まれて4ヶ月半で突然この世を去る。私は言葉が出ずただただ泣くしか出来なかった。
計約8年位の結婚生活であったと思う。
父はさも配偶者を先立たれた先輩みたいな顔をして私にお説教らしき事を言う。
良く分からないが妙な優越感の様な物を感じる。
全くどの口が言うんだかと呆れ、腹が立った私は決めた。
「父親には絶対に頼らない。」
あれから20年以上の時が経過をした。
周囲の手を借りながら娘達は大人になる事が出来た。
子育ては父の手を借りずにこれたが、頼みもしないのに父は私を当てにする。
いや、心のどこかで当てにしていたと言った方が正確かもしれない。
父は何度も度々金銭トラブルを起こした。
偶然に耳にした親戚達に父の管理が足らないと私が叱責される。
中には私が支払った物もあった。
結果、父の金銭管理の件で親戚と大喧嘩になり関係が悪化し現在に至る。
だんだんと父は老いていく。
何度も体調を崩し始め、痩せ細り記憶が曖昧になっていく。
認知症の症状の一つである被害妄想が出始める。
悔しい事にいつの間にかあることないことが全部私のせいになっている。
しかもご丁寧にそれを近所に言って歩いてくれるのだから、たまったものではない。
地域包括支援センターのケアマネジャーですら、父の話を信じる始末であった。
私と一番下の叔母が介護の経験があったのが幸いで、父の状況を二人で話し合い交代で様子を見に行く事にした。
時には二人で顔を出す。
また叔母も時々父の被害妄想のターゲットにされていたので、二人で散々陰で父をこき下ろしてあげた。
やがて父は入退院を繰り返すようになり、何度も救急車を呼び、病院から私が呼ばれる事も増えた。
と書いているがここまで来るまで、私は相当の葛藤をした。
あんな父親の介護をしたくない。
あんな人の面倒はみたくない。
悩みに悩んだ。
結局「仕方ない。やるしかないか。」に行き着いた。
娘達が私の背中を見ている。
人として最低限の出来る事だけをすればいい。
とそう決めた。
父の家に通う生活が数年間続き、父は真冬に自宅で亡くなる。
先出の叔母が発見をし、救急車を呼び心臓マッサージを施した。明らかに何時間も経過をしているのが分かる程に体が冷たくなっていたそうだ。
最後の方の父は昔を思い出されるような少し穏やかな感じだったと思う。認知症になった事で素の部分が出て来たのだろうか。それとも悲しい記憶を忘れたのだろうか。
たまにひょっこりと我が家に顔を出して娘達を驚かす事もあった。
そして家財整理と父の猫が残された。
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