私の恩人③

大学病院に着いて、最初に通されたのは口腔外科だった。先生は男性の先生二名。
抜歯したのは右上の奥から二番目と三番目。奥歯と奥から四番目の歯に被せものをしてブリッジになっていた。
いつものレントゲンと違ったのは、麻酔をして太い針のようなものを歯の上部分の歯茎に貫通させられた。ピピっと音が鳴る機械のようなものが、置いてあった。
先生達は丁寧に私の口の中を確認していく。
「特に問題無さそうだけどね」
ボソボソ会話が聞こえる。私は再び絶望を感じながら目を瞑っていた。
その時だ。呼ばれてやって来たらしい先生が
私に声をかけて、診察を始めた。
そして
「これは…すぐはずさないと。僕の診察室においで」
補綴科の先生だった。

補綴科 以外引用
虫歯や歯周病や外傷によって歯を失った方にはブリッジ(固定性の義歯)や義歯を用いて、歯が欠けたりすり減ったりしている方には、土台となる歯の形を整えた後、クラウン(かぶせ物)を用いて機能や見た目の回復を行う。また、修理や調整も行う。その他、がんなどのために失った顎の一部を義歯により回復する。  

診察室は三階の広いスペースを壁で仕切ってあるブースが何十個もあるうちの一つで、窓際の一番奥だった。
「痛かったろう?これで仕事していたの?良く頑張ったね」
メガネをかけた40代くらいの先生。
「大きく口をあけられる?」
「はい」ここまでは鮮明に覚えている。
直後に私は気を失ったらしい。
気がつくと先生と目が合った。
「歯がなくなっているのわかるなかな?」自分の舌で確認する。空洞になっていた。
前の時と同じだ。
「まだ痛い」私がそう言うと「かなり強く圧迫されていたんだよ。しばらく痛いと思う。」
この人を信用して良いの?疑心暗鬼に陥っていたから、表情も強ばっていたと思う。

その日から私の主治医が決まった。
病院の予約は主治医と患者が直接電話で話をして取ることができた。
何かあれば電話をして質問なども答えてくれる。
五日くらいして、私は病院に、先生に電話をした。
次回の予約日より前に。「まだ痛いんです」
先生は柔らかい声で、私を安心させるように
「ごめんね。必ず良くなるから。次の予約においでね」と言った。

話は脱線するが、大学病院で治療を開始することが決まった時に父にようやく話した。
父は憤慨して以前通っていた美容歯科に行こうと言った。
応接室のような部屋で白衣の歯科医師と父と私。
「娘は本当に死んでしまうんじゃないかと思うくらい痩せてしまった。訴えるつもりはない。どう思っていますか?」
相手はひたすら頭を下げていた。
ここで支払った治療費は戻ってくることで解決した。大学病院の方の治療費も負担いたしますという流れになった。
帰り、父と食事をしてそのまま父は仕事へ行った。
あの時の父の気持ちを思うと胸が張り裂けそうになる。
私も子供の親になり、子供の存在が自分の命より大事な事を知ったからだ。
お父さんありがとう。大好きだよ

二回目の診察の日は穏やかな雲一つない晴れた日だった。受付まで先生がきて名前を呼ばれた。
これからまたブリッジを作って歯を入れていくこと。
仮歯から作ってそれを入れて、痛みが生じなければ、いわゆる永久歯と同じ役割をする歯を作っていくこと。
丁寧な説明だ。初めてだった。
治療に入る前に、どうしても聞いておきたい事があった。

①何故、私の歯はこんなことになってしまったのかということ

②病は気からという言葉が当てはまっているのかということ。
私がこの病気を自分で引き寄せてしまったのか?ということ。

この二つをこの人の口から聞きたい。
先生は真っ直ぐ、数秒間私の目を見た。
「わからない」
沈黙。
ここに来るまでわからないという言葉を何度も聞いた。言われた。
それは上からであったり威圧的であったり、適当だったり、苦し紛れであったり、面倒くさそうであったり、他人事(他人だから当たり前か)だった。

こんな、誠実な「わからない」を
初めて聞いた


先生は続けた。
「どうしてそうなったのかは僕達が研究する。あなたは治すことだけを考えて。」
そして、あっ!と思い出したように器具を触りながら「考えなくてもいいよ。僕に任せて」
なんて暖かいんだろう。強ばっていた身体は少しずつ力が抜けていった。

そこから本格的に治療が始まった。
最初の頃は週に一度通った。
仮歯はすんなり入って、ゴム製のタイプだった為、口の中で順応してくれた。
いざ本物を作る過程に入ったとき、
これからはこの歯で噛んでいく、歯を使っていく、そう説明された病院からの帰り道、駅のホームで「なんか、痛い」そう思った。
引き返す訳にもいかず、少しパニックになった。
足が震えて記憶がフラッシュバックする。

良かった、先生のすべてを信用していなくて。
私はここにきて、先生と出会って歯科医師としての先生を心から尊敬したいと思っていた。しかし、今までのことを考えると95%は信用出来たけれど5%の警戒も残すことを忘れていなかった。

どんなに愛し合う恋人同士も一回の裏切りであっけなく壊れてしまうように、彼が愛を囁いても、嘘だったということがあるように、
彼女も本気だったけれどちょっとしたすれ違いで他の人のもとへ走っていくように。

100%の信頼は怖い。最悪な状態も危惧しておかないと。
先生は私を裏切らない。
心理的にはそうかも。
でも、物理的には?人が作る物を人の体に入れる。間違いが起きても不思議ではない。
一週間我慢した。
診察日。
先生に訴える。
仮歯に戻してもらう。痛くない。
ずっと仮歯がいいと無理を言う。
そういうわけにはいかないらしい。
また歯の型を取って作り直してもらった。
できあがった本物を入れてもらう。
痛みがぶり返した。
先生は「仮歯だと大丈夫なのに、なんでなんだろうな」
胸がバクバクしている私の心情を察して、
「何度でも作り直すからね。時間がかかっても僕が治すから」

何回か作り直してもらった。
そうして治療は終わった。
歯の方は違和感も痛みも消えた。

もう通わなくていいのかな?そう思っていた直後に、異変は起きた。
舌が痛い。右側の奥。ヒリヒリする。
口内炎?
次回の予約時に先生に診てもらおう。

私は25歳になっていた。

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