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小さな日々のこと

noteを読み漁ったり小説をすこーしだけ読んで軽く絶望したりしている。
自分の書いているうっすい文章が、ますます浮き彫りになり、池とか沼に例えるなら、何センチどころか上澄みの上澄み部分をすくって満足しているような。
センスというものが色濃く見えるのなら、色なんて全然ついてない。半透明、いや透明。
なんでなんだろう??(しらん、才能がない)
他のnoteを読むのが怖い。
結局エッセイなんてものはネタがなきゃ書けないし、昔の話を出していけば尽きる。
書きたいことはたくさんあったはずなのに、もう書き終わっちゃったのか?
頭のなかすっからかんなんですけど。
フィクションは書いていてすごく楽しかったけど、はい、次!みたいにはなれず。

昨日は推しのミュージカルの観劇に行ってきた。
抽象的な感想はXの方でポストし、具体的な事は書けない。一回観ただけでは絶対に書けないと思った。
あれこそレポとか書ける人は尊敬しかないわ。
せめて三回は観たい。
欲を言えばいちいちストップをかけて、表情から身体の動かし方歌い方を網羅して臨みたい。メモも取りたい。
慎重に演者の心まで掴んで書きたい。それじゃレポではない。プロデューサーである。
そんな事は無理だから、冷静になれないと書けないと言い続けてきたような気がする。

先日初めてのフィクションを書いたときに自分の想像と妄想では限界を感じ、勝手にアンケートと称し友人数名に聞いてみたことがあった。
「長年の信頼している友人からお金を貸してほしいと言われたら貸すか?いくらなら貸すか?」と尋ねた。
聞いたのは三人だけだが、それぞれが言うことが違っていた。
一人は金額によるし、理由によると答えた。
もう一人は長年の友達なら貸しはするが終わりを見据えていると言った。
もう一人は貸さない。友情を終わらせたくないから。と。

共通していたのは、もし貸すとしても返ってこないことを前提にするというものだった。
友情も終わるかもしれない。
つまり、どちらを選ぶかということだ。

お金を貸してと言われるということは、この人は切ってもいいと思われているからという友人もいた。

私は、どうするかな。
お金を貸してほしいと言ってきそうな人が周りにいない。
もし、それを望んで言ってくるとしたらひどく困っていて、命からがら逃げているとしか思えないと思った。
そんな事をいう私に友人は「騙されないように気を付けてね」と言った。

若い頃五千円を貸した友人とは疎遠になった。
それはお金が原因ではなかった。環境の変化でそうなったと思っている。
相手はラッキーと思っているのだろうか?
とてもそんな風に思えない。

もしラッキーと思っていても、知らなくていい。
私が忘れれば良い。
貸した五千円より共に過ごした青春の方が大切である。
騙されていても知らない方が良いこともある。

人の話を聞いていると価値観の相違に驚かされたり感動したり小さな発見がある。

そして自分の価値観とはあくまでも自分の世界で作り上げたものだと思わざるを得ない。

それでは



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