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無能なのに勉強だけは出来た発達障害男性が、50歳にしてようやく理解した「自分の能力の正体」 その② 【ADHDは高学歴を目指せ】

 36.

 ――勉強は出来るのに、日常生活や仕事は何故か全くダメ。

 灘校・京大は出ているのに、まともな人間関係を築けず、仕事もまるで出来ない僕は。
 自分は、そういう人間だと思い。

 何故日常生活や仕事は全然ダメなのか。
 どうすればよくなるのか。

 そういうことを、ずっと考え続けて、試行錯誤し続けてきた僕ですが。

 四十を過ぎたころ。
 様々な経験を積み。
 さらに、発達障害、ADHDというものを知り、診断を受け。
 ようやく、全てが逆だと気づきます。

 ――日常生活や仕事は全くダメなのに、何故か勉強だけは出来る。

 自分はそういう人間であり。
 それからは、逆に、何故勉強だけは出来たのか、ということを考えるようになりました。

 そして、ようやく行き着いた答えは、これでした。

 ――「間違いを見つける能力」だけが、異様に秀でている、と。


 思えば。
 幼時に、一切の娯楽を禁じられ、非常に高度な教育を受けた上に。
 勉強をまるでしなかった十代期間も、現実逃避目的であるとはいえ、読書量だけは十分に積み重ねた。

 文系教科がそれなりに出来るのは、まあ理解は出来る。

 しかし、理系教科、特に数学がかなり出来るのは、少し奇妙なことでしたが。
 特にミスの多いADHDの僕では、それが苦手になるのが普通だと思えるのですが。

 その理由を考え、ようやく行き着いた理由が、「数学は人工的なもの」だから。

 人類がある程度進化する以前から、つまり「自然」の中で人類が生きていた頃から存在していたもの――物理原則だとか、天体の動きだとか、生命だとか、様々な言語だとか、心理の動きだとか――そういったものは、どうしても「人間には分からない」部分が多く残っていますが。

 人類がある程度進化してから作った、「数学」という学問は、とにかく合理的なもの。

 個人の能力の限界のせいで、「理由が分からない」はあっても、「理由がない」ということは、一切ありません。

 特に高校で理由する範囲以内の数学であれば、しっかり基礎をやっていれば、「理由が分からない」ものも殆ど存在しません。

 そういう学問であるため。

 問題を解こうとしてうまく行かなかった際に、しっかり精査しさえすれば、自分の間違えたところ、足りないところが、必ず発見出来る。

 そして、「次回に同じ間違いをしないために、どうすればよいか」を考え、「新しい方法でリトライする」行為を繰り返しさえすれば。
 必ず、正解できるようになるのです。


 そういう学問ですから。

 生来のADHDであり、ミスが非常に多い僕でも、数学を得意教科にすることが出来たのです。

 勿論、実際にはそんな単純なものではなく。
 「しっかり基礎をやる」「自分の間違いを精査する」「間違いを繰り返さない方法を見つける」といったことが、なかなか難しいのですが。

 そのあたりは、幼児教育だったり兄の夭折だったり、様々な外部要因のお陰で、僕に「執念」のようなものが生まれ。
 その執念のお陰で、高校範囲までは何とか乗り切ることが出来たのです。

 かくして。
 数学と真剣に向き合ったことにより。

 いつしか僕には、「間違いを徹底的に精査する」という習慣が身についていました。
 
 そして、その内に。
 「間違いを発見する能力」だけが、素晴らしく鍛え上げられたのです。


 この能力は、数学以外の学問をする際にも、非常に役に立ちました。

 特に力を発揮したのは、「選択問題」を解く時。

 知識不足によって正解がまるで分からない問題であっても、与えられた選択肢全てを、徹底的に精査し。
 些細な「間違い」を発見し、選択肢を一つ一つ省いて行く。

 そんな「消去法」で、正解に至る。


 その能力が、非常に高かったお陰で。
 当時存在した「センター試験」=選択式の試験において。

 それまで中高六年間、学年最下位を突っ走ていた僕が。
 いきなり、学校平均を超える得点を取ることが出来たのです。


 そうして京都大学に合格出来た僕ですが。

 でも、そこで挫折します。

 この「間違いを発見する能力」は。

 学問の世界ですら、「高校までの単純な数学」と、「選択肢の存在するテスト」でしか、力を発揮しないのです。


 大学の高度な学問――「自分で答えを生み出さなければならない」際には、一切役に立たないのです。

 論文なんてかける筈もない。
 

 そもそも、大学に合格したことで満足し、勉強への一切の執念を失ってしまっていた僕は、コツコツ勉強することも出来ず。

 大学で、見事に落ちこぼれてしまったのです。



 そして。
 社会に出てからは、その落ちこぼれぶりが、さらに加速します。


 「人間関係」や「仕事」というのは、「社会的」なもの。

 個人的な「勉強」と違い、自分一人で解決しきることが出来ない。

 勉強であれば、間違いを犯した時に、「精査し、反省し、リトライする」為に、(やる気がありさえすれば)どれだけでも時間を充てられますし。
 どれだけ馬鹿な失敗をしても、それを良い反省材料に出来る。

 勿論、家庭や学校などでは、比較され馬鹿にされ、動揺したりもしましたが。
 受験勉強を、独学=自分一人きりで勉強する道を選んでからは、そんな思いもなくなり。
 しっかり力を伸ばすことが出来たのです。


 でも。

 人間関係や仕事は、そうは行かない。

 僕が間違えると、それはすぐに他人の目に入るのです。


 しかも。

 特に、勉強以外のことが一切出来ないADHDの僕は。

 人の話が聞けず、他人の心を理解できない僕は。

 人間関係でも仕事でも――どんなことでも、初回は絶対に失敗してしまう。

 結果、多くの場合、他人に多少の損害を与えてしまいます。

 プライドが非常に高いくせに、心が非常に弱かった僕は、その状況にひどく動揺してしまい。

 強い罪悪感や羞恥心が生まれてしまう。

 そんな動揺の中で反省しても、それは冷静な分析にはなりえないし。 

 リトライをする際には、「今度は間違えられない」という意識が強くなり。
 ADHDの僕は、余計に失敗しやすくなる。

 それでも失敗してしまった際には、動揺はさらに大きくなってしまう。


 「どれだけ失敗してもいいから」「それも個性だから」。
 そんなことを言って励ましてくれる人も、皆無ではなかったのですが。

 そしてそんな言葉を信じて、さらに頑張っていれば、高校範囲以下の勉強の時同様、ある程度成果を出せたのかもしれませんが。

 僕は、そんな言葉を信じることなど出来ず。
 「どうせ内心では馬鹿にしているだろ」というひねくれた反応しか出来ず。

 結局、また失敗する。

 人間関係でも仕事でも、一切成果を出せないまま。


 そしてその果てに。

 僕は、その失敗を「隠蔽」しようとしてしまう。
 これでは、反省も出来ないし、勿論リトライも出来ない。

 成長は一切しなくなる上に。

 その「隠蔽」は、いずれは発覚する。

 そして、社会からさらに叱責され、馬鹿にされてしまうようになる。



 それが積み重なってしまう内に、やがて耐えきれなくなり。

 最後には、その人間関係から、その仕事から――日本社会から、逃げ出してしまうのです。


 


 かくして。
 僕の唯一の武器である、「間違いを発見する能力」は、社会では一切役に立たなかった。

 ただ、「高校範囲以下の学問を教える」という仕事=「塾の先生」という仕事においてのみ、ある程度の効果を発揮し。

 かつ、どれだけ失敗してもそれほど気にしなくてもよい環境=「外国暮らし」「ワンマン会社の社長」という生活を選ぶことで、ある程度ストレスを軽減させ。

 


 どうにか、社会の中で生きて行くことが出来たのですが。


 しかし。

 この「間違いを発見する能力」は。

 人間関係や、仕事のみならず。

 「生き方」そのものに、大きな悪影響を与えることになるのです。

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