「荒野」に踏み出すADHD 【ADHDは荒野を目指す】
5-35.
台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立します。
しかしそこで、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、三千万円の賠償金と営業停止処分請求の民事訴訟を起こされ、窃盗容疑で警察にも訴えられ、さらにH舎の関与が疑われる誘拐未遂事件も発生。
それでも、どうにかそれら全てを切り抜けることに成功した僕は、一人きりでやることの限界を感じていた塾の拡大を考え、義妹・イーティンを事務員、年上の日本人男性・谷沢を講師、台湾人男性と結婚した田中を非常勤講師として、それぞれ雇用。
生徒も大勢集まり、いよいよ新しいクラスが発足する――という前夜、突然、国語担当の非常勤講師・田中から、『家事を優先させたいので仕事を辞退します』というメールが届くのです。
僕はただ呆然とします。
十八時間後には新しいクラスがスタートするというのに、担当講師の一人が突然いなくなったのです。
最悪の状況でした。
数か月前、講師が退職してしまった時にも、講師不足という問題はありました。
けれどもその時は、退職希望が二週間後でしたし、担当授業数も担当生徒数も少ないものでしたし、その生徒の家庭と僕の間に信頼関係もあった。
だから、大きな問題を越さずに、クラスのキャンセルという事態を収拾することは出来た。
しかし今回は。
まだ一度も授業を受けていない大勢の生徒達相手に、僕のことをまるで知らない大勢の保護者達相手に、いきなり、国語のクラスをキャンセルすることになった、と伝えなければならない。
いつ再開できるかも分からない、と告げなければいけない。
評判を大きく損なうことになるのは、火を見るよりも明らかです。
田中のしたことは、余りに無責任な行為です。
仕事を辞退することは仕方がないにしても、それを前夜にメールで知らせる――というのは、余りに酷い。
急用が入ったなどの理由なら勿論どうしようもありませんが、彼女の場合はそうでもない。
それならば、もっと早く伝えるか、我慢をしてでも、最初の数回は授業をするべきだ。
――僕はそう思い、そう彼女を説得しようかとも思いましたが。
すぐに、断念します。
僕はこれまで、嫌がる人を説得し、翻意させた、そんな経験は一度もない。
僕の物事の感じ方がずれている為でしょうか、他人の「心の琴線に触れる」言葉など出てこないのです。
勉強を嫌がる子供を、勉強好きにさせられたことなどない。
慣れ親しんだ子供達ですらそうなのです。
大人の、しかも殆ど交流のなかった田中を説得できるとは、とても思えません。
さらに言えば、子供に無理やりさせた勉強には殆ど意味がないように、田中にやりたくない仕事を無理やりさせたところで、その授業の質はひどいものになるのは疑いない。
その方が塾の評判を落としかねない。
田中に関しては、諦めるしかない。
そもそも、そんな人物を採用した自分が悪いのだし。
そういうリスクは常にある――僕や谷沢だっていつ急病に倒れるかわかったものじゃない。
忘れよう、と僕は思います。
しかし――授業に穴は空けられない。
けれども、僕と谷沢の予定は埋まっている。
と、なれば――取るべき手段はただ一つ、今から十八時間以内に、別の講師を探し出すことです。
この台北で授業を担当してくれる、日本人講師を。
あり得ないような話ですが――幸い、心当たりがありました。
三田という、以前に面接していた女性です。
英語が堪能で、日本で塾講師をしていたという。
まだ二十代前半、おしゃれで、明るくハキハキした女性です。
しかも、夕方以降は十分時間があり、どれだけでも仕事をしたいと言う。
悪くはない――いや、いい先生だ。
日本の塾でも時折いる、女子生徒から人気になるタイプの、元気な女性講師だ、と僕は思います。
でも大きな問題がある――彼女は留学生であり、就労ビザがないこと。
留学生のアルバイトは、違法です。
面接の席上、その点を口にすると、彼女は言いました。
――周囲の留学生の多くが、日本語講師や日本料理屋のサーブの仕事をやっています。
――勿論違法ですが、摘発された例なんて聞いたことがありません。
確かに、と僕は頷きます。
そういう実態については、散々聞かされたことがあります。
――とはいえ。
違法行為は違法行為。
しかも僕の塾は、出来たばかりで評価も定まっていない上に、ライバル塾に付け狙われるという問題点もある。
少しでもリスクは減らすべきだ。
そう思った僕は、三田の雇用は断念、配偶者ビザを持ち合法的に働ける田中を採用したのですが。
それでも、三田に対しては、何かあったら連絡するかも知れない、と告げていました。
それに対して彼女は、いつでもお願いします、絶対に駆け付けます、と答えました。
何せ、人件費の低い台湾、日本語講師や日本料理店のアルバイトは、時給五百円にもならない。
それに対して僕の塾は、アルバイトに対しても、時給千五百円を提示しているのです。
本当にお金の欲しい留学生にとっては、リスクがあれども、非常に美味しいアルバイトなのです。
彼女のその返事に希望を託した僕は、早速彼女に連絡を入れることにします。
とはいえ、既に十二時を回っており、流石に電話は出来ません。いきなりで申し訳ないけれども、明日仕事が出来ないか、というメールを入れ、祈るような気持ちで帰社します。
そして翌朝、僕は大いに安堵します――三田からの、是非お願いします、という返事が来ていたのです。
しかも、その後の週三日勤務も、何の問題もないと言う。
最悪の事態は免れた。僕は力が抜けるような思いをします。
ただし――心が晴れている訳ではありません。
これは紛れもなく、違法行為です。
勿論今までも、僕は違法行為をしなかった訳ではありません。
中学生のころに本屋で万引きをしたことがありますし、チベットにある外国人の入ってはいけない地域に踏み入ったこともありますし、台湾においても違法営業スレスレのことをやった。脱税だってした――させられたことがある。
また、現地では合法であるとはいえ、日本人がすることは認められるかどうか微妙な行為――大麻を吸うことだって何度かはした。
しかし、今回のそれは、少し話が違う、と僕は思いました。
それまでの違法行為は、全て自分一人の問題。
それを摘発されることによって損を被るのは、自分一人です。
しかし、違法に労働者を雇用するというのは、そうはならない。
台湾政府によって告知されているのです。
――外国人の違法就労が発覚した場合、会社は相応期間営業停止、その外国人は国外追放、入国禁止になる、と。
谷沢やイーティン、そして三田にまで、被害を与えることになるのです。
チベットヒッチハイク旅行や、台湾での起業など、自分一人か、せいぜい家族が絡むだけの問題に対しては、大胆――というか、無鉄砲になれる僕ですが、他人が絡むと、途端に臆病になる僕です。
他人に迷惑をかけること――というより、他人に批判されることが、怖くてたまらないから。
――留学生を違法就労をさせていることがH舎に知られ、H舎によって労働局や移民局に密告され、いきなり調査員が来て……。
そんな未来を想像するだけで、小心者の僕は震えてしまいます。
それでも。
僕は社長なのです。
そして、「清濁併せ吞む」ことが出来るのが本物のリーダーだ、と聞きます。
そもそも、脱税や著作権違反、労働基準法違反など、「濁り」しか呑まないH舎の金村のことを考えると、この程度のことは可愛いものと言って良い。
そもそも外国人の就労が違法であるのは、該当国の人の労働機会を奪うことになるから。
でも、僕の塾のような、外国人が講師をすることが前提の会社では、そもそも事務員を除いて台湾人に雇用機会などない。
だから、この雇用によって損害をこうむる台湾人は存在しない。
その一方で、三田はお金を得られて喜び、僕の塾も授業に穴を開けずに済んで喜ぶ。
生徒達や保護者達だって、これ以上塾選びに悩まずに済む。
全員が幸せになるこの行為は、「濁り」などではなく、「清い」ものだと言っていいぐらいじゃないか。
僕はそう自分に言い聞かせます。
――ただ、同時に。
自分の言っていることは、おかしいことにも気付いています。
「清濁を併せ呑む」というのは、「濁り」であることを自覚しながらも、覚悟してそれを呑みほすことでしょう。
でも僕には、それが出来ていない。
牽強付会――自分に都合の良い理屈をこねくりまわし、「濁り」を「清い」ものだと思い込もうとしているだけ。
「濁り」を呑む勇気が、ないのです。
僕はリーダーの器ではない。しみじみそう思います。
そして、怯えます。
海外で、一人きりの力で起業する――それは、手本にするもののない、暗闇の中を手探りで進むような行為です。
開業以来のたった一年半の間でも、一人きりの小さな塾でも、営業許可が下りないこと、妨害行為や裁判、人事問題など、無数のトラブルが起こったのです。
間違いなく、今後はさらに多くのトラブルが起こるでしょう。
その中には、どうしても「濁り」を呑まなければならない時もあるでしょう。
肉体的にも精神的にも、厳しい日々になるでしょう。
器の小さい僕にとって、そして面倒なことが最も苦手なADHDである僕にとって、それは、想像するのも恐ろしい未来なのです。
けれども、もう引き返せません。
家族もいる。社員も客も大勢集まってきている――今からはもう、引き返すことの方が、前に進むことよりもずっと、面倒なのです。
そしてそれは、僕自身の望んだことです。
そういう状況にでも身を置かない限りは、前に進めない人間なのですから。
とにかく、進むしかないのです。
――そうして。
僕は、経営者としての一歩目を踏み出したのでした。
――そこが、それまで僕が旅してきたどんな土地よりも、はるかに過酷な「荒野」であることなど、知りもせずに。
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